05_オーストラリア・コーラック6日間走

オーストラリア・コーラック6日間走

20-26 November 2005

 

2005年11月20日から26日にかけて行われた6日間走に参加してきました。
場所は、オーストラリア・メルボルン(Melbourne)より南西に150km程行った所にあるコーラック(Colac)と言う町です。

・メルボルン(Melbourne)~コーラック(Colac)へ
11月18日朝7:30分、私とサポートのA木さんは先に日本から香港経由でオーストラリア・メルボルンに到着しました。今回一緒に走る他のメンバーは日本からの直行便でメルボルンに入り、全員集合して コーラック(Colac)に移動するのですが、バスで空港(Tullamarine Airport)より途中の町ジーロング(Geelong)まで行ける事がわかり、バスに乗ることにしました。そこでチョットしたハプニング。当然バスの到着地点は駅だと勝手に思っていたのですが、駅から15分位離れた場所にバスが停まり、そこから歩いて最寄駅(Geelong)に行きました。メルボルン駅からジーロング駅までは列車が頻繁に走っているようですが、コーラック(Colac)駅に停まる列車は一日に2~3本と本数が少なく、駅構内の売店で朝昼兼用の食事を摂り列車の来るのを待ちました。13:34発→14:43にColac駅に到着。閑静な駅で駅前が思っていたよりも何も無く、そこからホテルへ向かうのですが、標識も地図もない所で人に聞きながらやっとホテルが見つかりチェックインしました。疲れたーぁ、一言。

日本とColacとの間の時差は2時間で、Colacの方が早いです。朝は6:30位には明るくなり、夜は9:00過ぎないと暗くならないで、明るい時間がとても長いです。日中は日が差すとすごく暑く、日本で言うと6月くらいの陽気で初夏を思わせるようでした。Colacには湖があり(Colac Lake)、避暑地となっているようで、夏の間にはキャンピングカーで訪れて遊んで帰るのだと思います。湖ではヨットを楽しんでいる人達も見えて、そう言えば一緒に走ったK田さんも何を隠そう元はヨットマンだそうです。レース会場となるメモリアル・スクウェア(Memorial Square)は、ホテルから近くて直線で200m程です。普段は、コーラックの人の憩いの場所で、噴水もあったり、ちょっとしたモニュメントもあります。レース中大型バスで公園横に乗り付け、観光ガイドさん風の方が説明しているのが見えました。中国人の方が多かったです。ここColacに住んでいる日本人は、一人位だと言うことです。アジア系は中国の方が多いようで、レース中も「チャイニーズ、ニイハオ、ニイハオ」と、よく声を掛けられました。

・レース前日
朝ゆっくり目に起床。朝食はホテル前にあり、ガソリンスタンドと併設してコンビニの中にあるサブウェイ(SUBWAY)にしました。朝8:30オープンで、サラダとパンとコーヒーでお腹を満たし、散歩することにしました。湖へ行ったり、レース会場となるメモリアル・スクウェアに行って準備しているところをチェックしてきました。前日からすでにテントに泊まっている人、キャンピングカーで泊まっている人たちは、完璧に準備が出来ていました。我々のテントは大きなのが2つあり、一つでも充分な大きさでした。ここが個人サポート用のエイドステーションで、ここに泊まる事も出来ますが、キャンピングカーも借りました。キャンピングカーの方がゆっくり休めると思ったからです。

・なぜ、6日間走を走るの?
この大会のホームページを毎日見ていて、昨年の大会が終わった時に、今年の大会の日程がすぐに決まり、更に20回の記念大会でもあることを知りました。私自身ウルトラマラソンは、100km・24時間走・48時間走と走ってきています。リュックを背負い旅をしながら走るのはあまり得意ではないので、どうせ走るなら少しでも競技性のある方を走りたいと思ったからである。今年の夏にドイツの6日間走を走友フランス在住の有田せいぎさんが走っています。彼からも何度か一緒に走ろうと誘いがありましたが、Colacは外せなかったです。なぜならそれだけ魅力のある大会だからです。6日間走は究極のウルトラレース(時間走)だと私は思います。それにチャレンジ出来る事、走らせてもらえる事は、子供の頃の徒競走で一番遅いクラスで最後を争っていた人間だとは思えない、信じられないことです。「走ってて良かった」と、スタートラインに立った時に思いました。

オーストラリア6日間走
05colac6d

2022年8月29日 | カテゴリー :

02_ロシア・モスクワ24時間走

旧ホームページより

2002.05.10-11  ロシア・モスクワ24時間走

stadium”October”,Moscow,Russia 165.837km 総合25位

・「モスクワ24時間走」私にとって非常に忘れられないレースとなりました。

2002年05月08日、東京成田発の直行便でモスクワに着きました。丁度15年前にも来た事のあるこの地を、再び訪れるとは。空港だけは変わってないような気がします、薄くらいのは以前来た時と同じでした。到着ゲートを出ると、今回のレースディレクターの息子さんが迎えに来てくれ、そのまま宿舎へ車で連れて行ってくれました。

失敗1-両替、ガイドブックにも書いてあったのですが無視して日本円しか持って行かず、モスクワの空港の銀行でと思っていましたが、空港では日本円からの両替は出来ず(到着ロビー)、宿舎に着く間に何軒か銀行をあたってもらいましたが、看板には日本円のマークがあるのに今はやってないとか、わからないとか、時間が無いからダメだと断られてしまいました。参った。持っていたVISAカードをATMがあったのでお金を引き出そうと思ったら、これもまたダメで結局一文なし状態でした。

宿舎に荷物を置き、夕食に誘いました。宿舎が郊外にあったものですから、観光しながら中心地に向かい、地下鉄のプーシキンスカヤ駅の出口にある両替所で偶然にも日本円からロシアのお金ルーブルに換えてもらうことが出来ました。ラッキーでした。両替所の人は偽札かどうか、なんども透かして見たりして、なかなか両替してくれなったですね。ロシアのお金も手にして早速レストランに入りました。「ヨールキ・パルーキ」と言うお店に入りました。あとから見たら、ガイドブックにも載っていることがわかり、さすがロシアの中でも有名店なんだなあと関心しました。ボールに肉や野菜、イカ、なんだかわからないものをふんだんに入れ自分で味付けをかけて、鉄板の上で焼いてもらうと言う仕組みだ。自分で好きなだけ食べられるのでこう言うのもありかなと思います。あとは、麺入りスープ、ライス(ピラフ)、パンなどがあり、ビールもハイネケンとロシアのビールが生でありました。値段は10米ドル、1200円位でしょうか。美味しかった。食事を済ませ、観光に行ったのですが、何がなんだかわからず、歩いて疲れたので宿にもどる事にしました。時計を見ると11時、でも10時過ぎまで明るかったです。

宿舎にて、玄関の二つ扉を開けるとすぐ右側にカウンター、そこに機嫌悪そうなおじさんが一人、カギを渡してくれる。この建物内で一つだけだろうと思うTVがロビーに置いてある。デカイ。ドラマ風のものを見ていたらしい。廊下は暗い。もっと電気をつけてくれー、と叫びたくなりそうだった。12号室、ベット二つと、キッチン風の部屋、トイレ・シャワー室、広いが他に何も無い。

困った事1―トイレ、ロシアのトイレは便器の横にゴミ箱が置いてあり、トイレットペーパーを便器に流すのではなくその箱に入れるのである。トイレットペーパーも日本のようにやわらかくなく、硬くこれでは解けにくいだろう。ですから別に分けて捨てるのでしょう。わかるような気がします。トイレットペーパーだけなら良いが、水量、水圧がなく、ものが流れないという現象が起きた。参った。

困った事2-シャワー、泊まった部屋のシャワー、蛇口をひねるとなかなか出てこなくて、出てきたと思うと赤い水でした。しばらく使ってなったのでしょうか、5分位流しておいて、なんとなく普通の色になったので、お湯も出ることだしシャワーを浴びることにしました。口にしてみたら鉄の味がしました。ちょっと不愉快な気分でした。

レース前日の朝、お腹が空いたので宿舎近くのお店に買出しに出かけました。コンビニ風の小さなお店でお腹にたまりそうなものは無く、ウオッカやビールが目に付く、しょうがないので水を3リットル買いました。すぐ横にある大き目なお店は9時過ぎないと開かないらしい。店の前に出店風、八百屋があったのでそこで、青りんごとバナナを買いました。量り売りらしく、人差し指一本たてたら、りんごが6個、バナナは一房くれました。日本円にして300円くらいだったかな。ここで活躍したのが日本から持っていったスーパーの袋、こちらのお店では袋をくれないと言う情報だったので持っていって正解でした。始めて使ったロシア語が「ありがとう」、「スパスィーバ」と言う言葉だった。相手に通じたかどうかわからないが、お店のおばさんがニッコと笑ってうなずいたから、通じているなと思い喜んだ。

24時間走-レース前は日本から持っていった御飯とカップ麺、味噌汁などを口にし、お腹を満たした。宿舎から10分もかからず会場の着くので良かったのですが、トラックのコンディションを見て驚いた。50cm四方のゴムを敷き詰めているだけだった。400mトラックの上を四角いものを置くのですから当然ずれて隙間が出てきます。場所によっては隙間から草が出て花が咲いていたり、角と角がぶつかって山になっていたり、空気が入って盛り上がっていたりさまざまな現象を400mのコース上に描いていましたね。朝10時30分に開会式を始めるということで選手はゼッケン順に並ばされ、一人ずつ紹介されました。男女含めて65名、女子が11名参加している。ロシア全土、35のシティーから参加している。最高齢73歳の方が二人、最年少で20歳の方が一人の参加です。

2002年5月10日、AM11:00ラジオの時報とともにゆっくりスタートした。2周目以降からピッチが上がり、最初の1kmを4分19秒で通過でした。今回のペースをあらかじめ考えておきました。それは2週間前の富士五湖100kmと同じペースで100kmを通過しようと、すなわち、1km4分30秒でおしていこう思っていました。2km手前から私の前に1km4分30秒ペースで走るランナーが現れました。チャンス。彼は24時間走で267km走った記録を持っている選手だと言う。彼についていこう。彼は極端にペースを乱すことなく正確にペースをつかんで走っていました。すごい。結局彼は30km過ぎでペースダウン。ランナーはすり足走法の方が多いのでコースのくぼみに足をとられ転倒したり、突起している部分に足がつまずき転倒したりで、あちこちで転んでる姿が見ることが出来ました。人間玉突き衝突状態をはじめて見ました。一番下になった人は滅茶苦茶痛かったに違いないでしょう。私も24時間の中で一度転び、一回転しました。それほどダメージ無く、すぐ走れたから良かったですが、人によっては頭に包帯を巻きながら走っている人もいました、すごい執念ですよね。レースは一人旅となり40km、50kmを通過しました。50kmを3時間44分台予定通りのぺーすである。でも、走っていて余裕が無いことに気がつきました。このペースで行かなければ・・・。そんな矢先トイレに行きたくなったので、50km過ぎていたのではじめてトイレに行きました。コースから外れ、40m程の所で例のトイレである。簡易トイレではあるが、男性用の便器風と大便用、便器無しの穴が開いているだけ、そしてゴミ箱風のものが一つ。レース後半はトイレが悲惨な状態になっていたことは言うまでのことは無い。約2分の休憩後走りだしました。すぐにギアチェンジをしてトップスピードにのせて走って入る矢先、4時間たったので走る方向を逆にしました。反対の方向を走る時、何か変な感じがあったんですが、突然スピードが出なくなり背中、腰にハリを感じ重たくなってきました。ペースも5分~5分30秒にまで落ち、遂には歩き出すペースになりました。無念。まだ60kmなのに・・・。自分の無力さを痛感しました。走ったり、歩いたりその繰り返しで残り19時間過ごさなければならない。日本で近ければ何も無かったかのようにして帰るのに、ここは外国、トラックにいるのが最低のマナーだろう。レースできない身体に、むち打ってトラックを歩く、ランナーに声をかけられるが、ロシア語で何て言っているのかわからない。きっと「頑張れ」と言っているのだと思うが、わかっているだけに、自分が虚しくなってくる。泣きたい気分だ。ロシアは今の時期、夜10時を過ぎないと暗くならない。明るい時間が長いのも自分が調子悪い時には考えものです、わがままですね。辺りが暗くなると滅茶苦茶寒くなってきた、たまに吹く北風が疲れた身体には本当に応える。辛い。明け方が一番寒かったかな。明るくなったらだんだん温かくなり、一枚ずつ脱いでいきました。でもこんな温度変化の厳しい中でも、ランパン、ランニング姿で走っているランナーがいた事を報告しておきます。彼に「寒くないですか?」と聞いてみたかったですね。23時間50分過ぎ、ラスト10分間だけ走った。今まで走った24時間走の中で最も長かった24時間走でした。

これで私の中の24時間走、今まで走った記録などを自分の中で、リセットしてまた新しい走り方、ゼロからのスタートで再チャレンジしたいと思っています。もちろん記録を狙います。とりあえず、2002年は走りません。来年2003年の秋の復活を目指し、日々努力したいと思います。皆様の応援、これからも宜しくお願い致します。頑張ります。

ロシア・モスクワ24時間走-1

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2022年8月29日 | カテゴリー :

00-01_アメリカ・ウェスタンステーツ100マイル

WS(ウェスタンスティーツ)100マイルレース

 

以前、「ランナーズ誌」掲載の原文

「Western States Endurance Run」

    今年6月24日~25日にかけてアメリカ・カリフォルニア州で行われた「第27回ウエスタンステーツエンデュランスラン」100マイルのトレイルレースに参加してきました。日本人は私達3名と、ニューヨーク在住の高橋さんの4名を含み385名選手が30時間内に100マイル先のゴールを目指し挑戦しました。

・ウエスタンステーツ(WS)とは?

1950年代後半のTevis Cup Horse Race が元になっている。カリフォルニア州にあるスコーバレー(Squaw Vallay)からシエラネバダ山脈(Sierra Nevada Mountains)を通りアーバン(Auburn)までのコースだった。1974年にGordy Ainsleighが馬のかわりにそのコースを走りその後何人かの選手がトライし1976年には国の認めるオフィシャルな大会になった。スタート地点のスコーバレーは1960年に第8回冬季オリンピックがアメリカで初めて開催された場所としても知られ、オリンピックバレーとも言われている。

・WSの特徴

1.標高の高い所でのアップダウンが多い

2.砂漠地帯、岩場、山道といろいろな地形を走る。

3.温度(スタート地点は10度前後、日中は40度近くまで上がる)

4.中盤にある3つのキャニオン(Canyon)の上りと下り

5.ナイトトレイルランニング

6.川渡り

7.エイドステーションが1区間すごく長い(平均8km前後)

8.ペーサー(Pace Runner)をつけられる

・コース

スコーバレー(Squaw Vallay)~ロビンソンフラット(Robinson Flat) 0~32.2miles

スコーバレー(1,889m)を5時にスタートし、一気に2,652mのEmigrant Pass山頂まで駆け上がる。その後は、アップダウンを何度も繰り返しながらロビンソンフラットを目指す。標高の高いところのアップダウンの繰り返しは身体に大きな負担がかかる、山道は狭く岩がゴロゴロし踏み外すと滑落しそうな場所もある。

 

ロビンソンフラット(Robinson Flat)~フォレストヒル(Foresthill) 32.2~62miles

ロビンソンフラットを過ぎると今度は砂漠地帯を走る。この頃になると気温は40度近くまで上昇し暑さとの戦いとなる。それに加えDeep Canyon、Deadwood Canyon、El Dorado Creek と、700m近く一気に下りまた500mを一気に登るところが3ヶ所あり更にランナーを苦しめる。

フォレストヒル(Foresthill)~アーバン(Auburn)  62~100.2miles

フォレストヒルまで疲れ切ってボロボロ状態でくると、後半の60kmはとてつもない時間がかかる。ここを過ぎた所からナイトトレイルランニングが始まる為ペイサー(Pace Runner)をつける事が出来る。ペーサーは後ろから走り、コースの誘導等をしてくれる。手持ちのライトだけをたよりに足場の悪いトレイルをどんどん下っていく、下りは楽に見えるが疲労のため着地がしっかりつけず足を捻る事が多い。下りきったあと約100mの川渡り、今年は増水していて胸下位までの深さで歩いて渡る。その後きついアップダウンを繰り返しながらゴールのアーバンを目指す。

・感想

制限時間は30時間だが、24時間以内だと色の違うメダルとバックルをもらえる。24時間以内に走る事が参加ランナーの最大の目標でもある。今回は、65名のランナーが24時間以内ゴールをしました。総じてこのレースはマウンテンランニングであり、私達ロードランナーにとっては柔軟に走る事が難しくかなり悪戦苦闘しました。今後参加される方は、そのへんの所をふまえ練習してからトライして下さい。

・日本人参加者4名の結果

沖山健司  20時間56分02秒  (総合15位)

関家良一  21時間31分35秒  (総合21位)

沖山裕子  23時間54分17秒  (総合64位 、女子の部 9位)

高橋香    29時間03分19秒  (総合167位)

[データ]

*参加者  385名  /  完走者  222名

*エントリー方法-7月頃から10月頃まで受付けて、11月末に抽選があり、外国人枠は10名程度と聞いています。

*会場までの交通手段がないためレンタカーを借りる必要があり、今回はゴール地点にも前日にレンタカーを置いときました。

*参加賞-Tシャツ2枚、ボトル、バッグ(ノースフェース)、スポーツバー、シャンプー、リンス。

*完走賞-バックル、メダル、帽子、長袖Tシャツ。

*レース2日前にトレッキングで最高地点Emigrant Pass へ、山頂でコース説明や歴史の話など。

*レース前日にメディカルチェック、体重・血圧・脈拍を測る。それをリストバンドに書きレースが終わるまで外せない。

*エイドスティーションが24ヶ所あり、9ヶ所で体重測定、10ヶ所Drop Bag を置く事が出来る。

*エイドスティーションの飲み物、食べ物は充実している。氷も用意してあり自分のボトルにも入れてくれる。

*今回の費用-飛行機代、ホテル代、その他で15万円位。

【写真】

00-01_WS


完走するともらえる、バックル

2020年7月25日 | カテゴリー :

99_フランス・Eppeville24時間走

「エペヴィル24時間走」を走る

1999年5月22日から23日にかけて、フランスのパリから北に120キロに位置するエペヴィルという小さな町で開催された『第14回エペヴィル24時間走大会』に参加した。

参加選手は52名、うち日本人は私と在仏日本人の有田せいぎさんの二人でした。そもそも有田さんの紹介でこの大会に参加したのです。どんなウルトラランナーが参加するのか、楽しみのひとつでした。少なくとも日本では『エペヴィル24時間走大会』のことを知っている方は少ないでしょう。

本格的な24時間走(公式公認大会)に参加するのは初めてで、大会の雰囲気に慣れるのにちょっと遅れたような感じがした。

スタートは大会本部の体育館の中。パソコンの画面に20秒前、10秒前と表示されて、午後4時、スターターのピストルでスタート。コースはフランスののどかな田園の中を一周する2.7963キロの周回コース。2キロ過ぎに400メートルの上り坂がある。

スタート直後、二人の選手が飛び出していくのが見えたが、特に追いかけることはせず“マイペースで”と、有田さんとともに走る。一周2.8キロという中途半端な距離なので、ペースを掴むのが難しい。最初の1周が13分29秒。14分台前半のペースを設定していたのだが、スタートからちょっと速いペースだった。そして、このまま13分台前半の速いペースを維持してしまった。これが後半、ペースダウンを招く大きな要因になるとはこの時、知る由もなかった。

大会運営は体育館を中心に、体育館の中を走り抜け、出口にはエイドステーションがある。また1時間ごとの途中経過がスライドで写し出されていて、常に体育館の中を走り抜けるので、写し出された途中経過で、現在何周で順位は何位であるかなど、とてもわかりやすかった。私にとって全てが初めての体験でした。

2時間近く走った頃、トップを走るブラジルのサントス選手に抜かれてしまった。我々もいいペースで走っているが、彼はもっとハイペースで走り、その走り方から見てあまり長続きしないように感じた。しかし、その後9時間、サントスは自分の世界を創っていた。

2周目以降、エイドステーションでこまめに補給する。主にコカ・コーラ、水、炭酸水、オレンジ、レモンなどを口にした。またスペシャルエイドとして、体育館の入口手前に飲み物、若干の食べ物(カップ麺、チョコバー、梅干)を用意した。

真夜中、有田さんの応援に来たパリの在仏北海道人会ポプラ会の小林春二さんから差し入れがあり、食べたおにぎりがとてもおいしかった。

初めてのサポートで参加した渡辺真紀さんの応援もなかなかで、眠そうな顔をして頑張って起きて、応援してくれた。疲れた身体には『ガンバレ』の暖かい声援を掛けられることが何より嬉しく、疲れを癒すことが出来る。

夜も明けて、あたりが明るくなってきた頃、身体も疲れがピークに達した。今年のウルトラレースでの特徴だった160キロ、15時間以降にピークがくることがわかった。すぐに気が付き、休めば早く回復するのにズルズルと引きずり、時間だけ費やしてしまった。

結局2時間、無駄な時間を浪費する。20分仮眠して、すっきり目が覚め、元の身体に近いくらい疲れが取れたような気がした。ゆっくりと走り出して、静かにエンジンがかかるように自然とペースを上げて、2位が確定するまで精神を集中させる。

20時間を過ぎて、残りの時間が気になりだした頃、ラスト二時間は“歩こう”と心に決め、自分の走った道、周回コースをゆっくり歩きながら改めて見ることが出来た。後半の400メートルの上り坂は調子のいい時にはさほど気にならないが、歩いてみるとかなりきつい上り坂であった。

コース上、唯一、少年がエイドをしているところがあったので、挨拶しようとしたのですが、少年はすでにいなかった。ちょっと寂しさが残るが、最後の上り坂。24時間走れたことに感謝し、またいつか必ずエペヴィルを訪れようと心に決めた。

ゴールの体育館前、24時間でちょうど体育館で終わるように、選手がかたまり時間調整をしている。それぞれの健闘を称え合い握手する者、涙ぐむ者、写真を撮る者など、最高の情景というか、ランナーの顔に笑みがこぼれていて、とてもすばらしかった。

私自身、疲れていたが、最後は本当に楽しんで走ったような気がする。24時間走レースの厳しさ、これが本当のレースなんだと、自分なりに感じるものがあった。

24時間走終了の合図。“やったぁー!”とひとりで喜んでしまった。土地柄か、皆、人にやさしく、アットホームな雰囲気、とても走りやすいコース、この上ない持て成し、本当に感無量である。

24時間で83周、232.093キロ。第2位。自分では大変満足している。24時間走で250キロ以上の走りが見えてきたような気がする。また機会をつくり、是非チャレンジしたいと思う。

レース後の表彰式では町中の人々が集まったのではないかと思うほど、人また人の体育館であった。歩くたびに握手を求められたり、サイン攻めである。子どもたちのキラキラ輝くような目に思わず笑みがこぼれてしまった。

1999年第14回エペヴィル24時間走大会。

さすが長年、24時間走大会を開催している伝統がよくわかりました。我々日本人の待遇はよく、特に宿泊費や食事代など、主催者に負担してもらうとは思ってもいませんでした。

日本でも『エペヴィル24時間走大会』のように、いろいろな人、ランナーだけではなく多くの人が参加出来るようなウルトラマラソンのレースの開催を希望したい。今しばらくは本格的な24時間走の大会が開催されることを祈るばかりである。それまでは海外へ遠征して、ひとつでも上を目指して走りたいと思っている。

※1999帰国後の投稿記事より

【写真集】

99_Eppeville24H
↑ こちらから

2020年7月23日 | カテゴリー :

94-00ギリシャ・スパルタスロン246km

スパルタスロン・写真集

(1994~2000)

思い出のスパルタスロンより、月日の経つのは早いものですね~ェ

1994


スタートして30km過ぎの海、青い~

あるエイドステーション・教会の泉

昼間のサンガス、ここを登ります。(コース下見)


レースの後半歩いています。ゴールまでもう少し。


初ゴール、涙が止まらなかったなぁ~。地元の子供たちと一緒に。

1995

124kmまでトップで走る

5位でゴール

スパルタの表彰式にて

1996


途中まで良かったけど水にあたり途中棄権

アテネ市内、アクロポリスより

アクロポリスをバックに

1997


スパルタの表彰式にて

第2位に!

ハンドメイドの完走メダル

1998


1998のスタート地点で

ゴール、ギリシャ人のマイケル

二度目の2位に

スパルタの表彰式後、なにげなくW先生も

1999


1999年スタート地点で

残り、15km辛い~

ゴール後、病院にて

2000


2000スタート地点で

まだ少し余裕が・・・しかし、この年は途中棄権

2020年7月11日 | カテゴリー :

ギリシャ・スパルタスロン246km

スパルタスロン

~ギリシャ・アテネ~スパルタ 246km~

アクロポリス・スパルタスロンのスタート地点

以前のホームページより
*私達は、スパルタスロンについてまとめました。

蘇ったフィデピデスの伝説

小アジア西岸、地中海沿岸には紀元前11世紀以降、ギリシャ人移民によって、多くの植民地がつくられていて、それらの諸都市は、ギリシャと小アジアを結ぶ貿易によって経済的繁栄を成し遂げていた。 一方東ではペルシャ帝国が強大になり、小アジア西海岸イオニアのギリシャ都市を紀元前550年頃征服する。イオニア人たちは本土に援助を求め、征服されていた諸都市の反乱をアテネが援助したことからペルシャ戦争へと発展していった。 ペルシャ軍は6000の戦艦と10万の兵士を持っていたが、アテナイ軍は将軍ミルティアデスを中心に9000人の兵力しかなかった。
ギリシャの歴史家ヘロドトスによるとアテナイ軍の将軍ミルティアデスは、フィデピデスにスパルタ(古代ギリシャの最強国だった)まで走って行き、応援を求めるように命令したと言う。フィデピデスはスパルタまでの400kmの距離を4日で往復したが徒労に終わる。なぜならばスパルタの王レオニダスは、「5日後の満月の日まで手を貸さない」と、言ってきたのです。 古戦場マラトンは、長さおよそ2km、幅は広いところで1km、狭いところで500mの海岸に面した平原であった。ペルシャ軍を迎え撃つには格好の場所と決めていたアテナイ軍がそこに陣を構えたのは、紀元前490年の9月12日である。プラタイアからの援軍1000人も加わり、長時間の交戦となった。ギリシャ軍は戦列の中央部を薄くし、そこに突入してくるペルシャ軍を両翼から包囲する作戦をもって臨み、ペルシャ軍に壊滅的な打撃を与えて勝利した。この戦いの時に、一兵士がアテネに疾走し、味方の勝利を告げると痛労の余り息絶えたと言うマラソン競技の由来であり、距離にして、22マイル1470ヤード(36,749m)であったと言う。 

1982年、伝令フィデピデスの史実を裏付けようとするイギリスのアスリートチームがあった。彼らは一昼夜半でアテネからスパルタまでの246kmを走りきれるかを自分達で確かめたのである。3人のランナーがアテネからスパルタまでの道程を辿った。36時間~39時間で完走を果たし史実を裏付けたのである。 

1983年、伝令フィデピデスの勇気と強靭な精神力を讃えるかたちで、第1回ギリシャ・スパルタスロンが開催された。ヒィデピデスが成し遂げた伝令行の意志が長い年月を経て現在に蘇ったのである。


現在のフィデピデス、スパルタスロンランナーの走路

午前6時過ぎ、薄くらい闇の中にスパルタスロンランナー達がアクロポリス下の音楽堂前の道路に集まってきた。2000年大会のスタート地点である。初めの頃はアテネ競技場の前を、その後アクロポリスの入り口前がスタート地点でした。年々参加者が増え、2000年の大会は28ヶ国264人のランナーがゴールのスパルタを目指した。スタートは午前7時。その数分前、スパルタスロンと書かれている横断幕がスタートラインにしかれ、記念撮影をするランナー、抱きあって検討を讃えあうランナー、歌を歌うランナー、スタート地点ではいろいろな様相が見られます。スタート数秒前横断幕が片付けられるといよいよスタート。午前7時、鉄砲の号砲とともにランナーはスパルタを目指し西の方角へと走って行く。

アテネ市街は、金曜日と言うこともあって通勤ラッシュの時間帯で車が多いがこの日はスパルタスロンランナーの為に交差点の至る所に警察官が立っていて車を止めて下さる。いそがしい通勤の時に申し訳ないと思いながらアテネ市街を後にする。
ギリシャの夏は日の出とともに気温が急上昇を始め、スタートして2時間くらいすると炎天下の中に身を放り出すことになる。また、ギリシャの国土の約8割は山地、白っぽい石炭岩質の山肌が樹木に隠されることなく露出して緑が少ない。当然、日陰がほとんどないので、炎天下の中に身をさらし、更に追い討ちをかける様に小刻みなアップダウンを繰り返しながらコリントスに午後4時30分までに着かなければならないのです。今述べた事だけ思い浮かべると厳しさばかりが強調されますが、15kmくらいから左手にサロニキ湾の海を見ながら海岸線を走ります。紺碧の空と群青の海、自然の恵みにいつしか辛さを忘れ、そしてこの群青の海は気分を癒してくれます。又、この海岸線には石油コンビナートが幾つか並ぶエレフシーナ、オリーヴの林の続くメガラの町が位置し、ランナーはコリントスに向け通過して行きます。

78.5kmのエイドステーションを過ぎ、コリントス運河をランナーは渡ります。運河を横切る橋は、23mばかりでコリントス湾とサロニキ湾を結ぶ。言い換えれば、ギリシャ本土とペロポネス半島とを結ぶ橋である。橋の中央から望むと、水面から8mも垂直にそそり立った石炭岩断層の両岸が迫っている。運河は6kmほどで、フランスの会社による11年がかりの工事で、1893年に現在の運河が完成し、その後ギリシャの経済の発展に大きく影響したのである。コリントス運河を渡り2.5kmほど走ったところにあるコリントス第1チェックポイントに到着する。ここで初めてサポートクルーと接触することが出来、81kmを9時間30分(午後4時30分)以内で通過しなければならないので、時間内にたどり着けないランナーも多い。

コリントスを後にランナーは、主要道路を離れ、ブドウ畑の間を縫うように続く道を走って行きます。しばらくすると旧コリントス遺跡が目の前に見ることが出来ます。(93km付近)この旧コリントス遺跡にはアポロンの神殿跡があり、岩肌の露出したアクロコリントス山を背景に立っている7本の柱が風景として圧巻です。

ランナーは旧コリントス遺跡を後に、ブドウ畑のあいまを走り続けながら、124kmのネメア第2チェックポイントに向かいます。ネメアの手前の村、ヘラクリオンに古代ネメアの遺跡があります。ネメアは、海抜700mのトリカラノンの南端にあって幅1km、長さ4kmにわたり、高台に位置している。赤ワインで有名な地帯だけに緑の葉とたわわに実ったブドウ畑が続いている。また、古代においても聖地ネメアで、2年ごとに競技大祭が開かれていました。(ギリシャ四大競技大祭のひとつ)伝令フィデピデスもオリンピック選手であったと言われています。ほとんどのランナーは日が落ちた頃ネメアに到着します。124kの行程を15時間30分以内(午後11時)までに通過しなければなりません。ここからは闇の走行となる為ランナーは懐中電灯が絶対必要となります。当然街灯はないので足元は持っている懐中電灯で照らすしかなく足場に気をつけ、道も間違えずに行かなければなりません。この頃になるとランナーは集団よりはむしろ1人で走ることのほうが多いです。ネメアを過ぎる頃から徐々に勾配もきつくなり、サンガス山が近いことを感じさせてくれます。途中足場の悪い不整地を数十km走る行程があって疲れている身体に追い討ちかけるようにランナーを痛めつけます。この闇の世界でも、天気の良い時は満天の星とこうこうと光る月が宝石のように輝き夜空の天体ショーを我々に見せてくれます。私は流れ星に願いを込めます「完走したい」と。海と同様にこのギリシャでは自然の恩恵に幾度となく心を奪われることが多いです。

サンガスのふもとの町、リルケア第3チェックポイント(148km)に深夜3時までにランナーは着かなければなりません。ここのポイントでは深夜だと言うのに村の人たちが暖かく選手を迎えてくれます。一杯飲みながらでしょうか皆さん陽気に話し掛けて来ます。「どこからきたんだ?」「何か飲むか?」「ビール?ワイン?ウイスキー?」などなど。
走っていて楽しい時でもある。教会の鐘の音もここで聞いた気がします。

リルケアを後にしたランナーはピンカーブ勾配のきつい舗装道路を上り、サンガスのトップヒルの1つ手前、登り口のエイド(160km)を目指します。この地点ですでにスタートから700mほど登ってきているのです。これから1,100mのサンガス山越えが始まります。
緑の発光灯をたよりに、ガレ場をよじ登るような感じで登って行きます。高い木が無いので風が吹くと夜の冷え込みと重なって一層過酷なものにサンガス山は演出してくれ、山頂までの2.3kmがとてつもなく長く遠くに感じます。登りきった後は急な砂利道の下り坂が続き富士山の山頂から帰るコースをイメージして頂ければわかると思います。
下りきるとそこは、172km地点ネスタニ第4チェックポイント、ここまで午前7時に到着しなければなりません。ネスタニから次のテゲアまでは平坦な路面がずっと続き、ちょうど睡魔が襲ってくるのもこの頃だと思います。また、ギリシャは羊飼い(放牧)の国であり、それを思わせるかのように走っていると前から羊の群れに合うことがあります。実にのどかな光景で走っていることを一瞬忘れ見入ってしまうことさえあります。

195km地点、テゲア第5チェックポイントがあり、ここまでは午前11までに通過しなければなりません。テゲアはアルカディア地方における最も古い都市の1つである。テゲアから50km、山また山を這うように南下するとスパルタの町に着きます。この50kmがランナーにとって最後の舞台、精神面での勝負である。テゲアを過ぎてすぐ延々と30km近い上り坂が続き、周囲を遮るものは一切無く、2度目の炎天下に心身をさらした状態で走り続けなければならないのだ。暑さに耐えながら30km近く走り上りきり、222.5km地点、第6チェックポイントに到着、ここを午後3時30分までには通過しなければならない。まだ上りが見えるので早めにエイドをあとにする。NO.70のエイドを過ぎれば、今度は下り、顔を少し左方向へ動かすと、眼下に遠くスパルタの町が見えてくる。「とうとう着たな」と、思わせるがまだ15km近くある。スパルタは東西2kmくらいの小さな町です。周辺はオリーヴやオレンジの畑で町自体も標高200mのところにあって海からも遠い。スパルタまでの長い下り坂を下り、いよいよスパルタの町へ入ってきた。スパルタ橋を渡るとゴールは近い。最終エイドステーションNO.74でギリシャ人の若い女の子達が待機していて選手に2~3人ついてゴールのレオニダス像まで一緒に走ってくれる。聞くとほとんどが町の中学生だそうです。約2km刻一刻と英雄になる瞬間がやってくるのです。ゴール手前のコースに入ってくるとどこからともなく、「ブラボー、ブラボー」と、言って応援してくれます。思わず涙がこみあげてきます。スパルタの人たち、仲間に迎えられ246kmのゴール、レオニダス像にタッチします。走っていて辛かったこと、大変だったことなどすべてが喜びに変わります。そして勝者の証としてオリーヴの冠を頭にかけてもらえる。オリーヴの枝で作った冠は、古代オリンピック競技大祭で優勝者に与えた冠なのである。スパルタスロンを完走してオリーヴの冠を頭にかけてもらったランナー皆が勝利者であり英雄で、その英雄たちを一目見ようと遠い町から見にくると言う。多くの方々に祝福され本当に光栄です。

オリーヴの冠

マラトンで撃退されたペルシャ軍は、前回に上回る艦船と10万を越える陸兵を持って再びギリシャを攻めてきた。そして、テルモピュライでギリシャ軍と陸戦となった。ギリシャ軍守備隊の兵力は、スパルタ王レオニダスが率いる300名など合計6000名だった。テルモピュライで孤軍奮闘しているレオニダスの部隊にスパルタをはじめ援軍が送れなかったのは、スパルタにおいてカルネイアの祭礼がありその期間の出征が禁止されていたからである。カルネイアの祭礼に続いてオリンピック競技大祭が実施されギリシャの諸都市も大部隊を送ることが出来ず、ペルシャの大軍の前にギリシャ軍守備隊は全滅し、レオニダスは戦死した。(そのあとギリシャ軍は”サラミスの海戦”ペラタイアイの平原で行われた陸戦でペルシャ軍に勝利した。)
レオニダスがペルシャ軍と戦っていた時も残ったギリシャ人たちはオリンピュアに集まって競技したと言われている。古代競技大祭はギリシャ人の信仰を神々に捧げる祭典で英雄の死を悼んだり、神々の事業を偲んだりすることに祭典は始まった。競技大祭の前後の一定期間中は、「オリンピックの平和」すなわち「聖なる休戦」が実施され、一般人が安心して競技大祭に出かけられるように、敵対行為のみならず、処刑も禁止され、オリンピュア聖域はもちろん、大祭を管轄するエリスに武装した人が入ることを禁止したがペルシャなどの外敵には通用しなかった。そして、この休戦はレオニダスにとって悲劇的な結果となってしまった。
オリンピック競技大祭で、優勝者には金品ではなくオリーヴの枝で作った冠だけが与えられたのである。オリーヴの冠は優勝者にとって精神的栄冠なのである。何故優勝への道をかけのぼるろうとするのか、それは栄誉とともに安らぎが持たされるからである。まさにそれは人間の内面から自然に湧きあがってくるものと言われている。スパルタスロンであのレオニダス王が見えてからのコースで地元の方からの祝福、スパルタの表彰式でのスパルタ市民全員から拍手喝采は名誉なことであり、オリーヴの冠をかけてもらった瞬間から大きな安らぎがあたえられ、まさに古代オリンピック優勝者のもつ感情と同じではないだろうか。
そして又、スパルタスロンは人間にとって大切なものを教えてくれます。感謝の気持ち、感動、喜び、人をいたわる心などを内面から呼び起こし、純粋な気持ちにさせ、人に優しく慣れるのです。そして、国境越えた人間同士の友情もめばえ、大会を通して同胞の意識を持つ事をも出来るのです。「鍛えられた肉体が純粋に求めて競う」古代オリンピックの精神がスパルタスロンに大きく繁栄しているように思います。フィデピデスは4日間でアテネからスパルタ間を往復したと言われている。近い将来、アテネからスパルタ間を往復するランナーが現れるのであろうか。私達は是非挑戦したいと思います。

スパルタスロンの記録について

参加者が年々増加してきた今日、情報化社会の影響もあり誰もが簡単に参加できるようになってきた。参加資格の中に「100km以上の距離を走ったことのある者」とある、日本でも幾つかの100kmマラソンが開催されているのでその大会に参加したことを書いて提出すれば参加出来る。
記録の事を言えば、イヤニス・クーロス氏のことを言わなければ始まらない。彼はギリシャ人で現在はオーストラリアに在住しているそうです。第一回のスパルタスロンで21時間53分の記録で優勝して以来、コースレコードとなる翌二回大会の20時間25分を出し、トータル四回優勝している。彼はスパルタスロンだけではなく24時間走、48時間走、それ以上の距離にも圧倒的強さを発揮して記録を持っている。ウルトラランナーの代名詞とも言われ、ミスターウルトラとも呼ばれているそうです。
日本人参加者の記録を見ると、初参加が1986年の西村さん、上位入賞者が1989年の森川さん、26時間08分で3位に入賞している。そのあとの日本人入賞者は1996年の古家後さん、27時間41分で第二位、1997年25時間55分、1998年26時間13分、沖山の二年連続第二位に入賞している。1999年、小野木さんが27時間16分台で第三位に入賞し、そして2000年24時間01分10秒で大滝さんが日本人初優勝を成し遂げた。女子についてもここ4年位前から表彰がはじまり記録としては1998年のスウェーデンのメリー・ラーソンさんが28時間46分でコースレコードを持っている。日本人では北海道の船田さんが1998年に29時間32分台を持っていたが、2000年、沖山裕子が29時間16分37秒で見事優勝した。2000年男女の優勝者が日本人から出た事は快挙であり、スパルタスロン史上に残る最高のパフォーマンスではなかったかなと思います。
これからますます日本人参加者が増えると思いますが、皆さんが無事楽しくゴールのスパルタまで走り、レオニダス像にタッチ出来ることを心よりお祈りいたします。

 

スパルタスロンへの参加

私がそもそもスパルタスロンに参加しようと思ったのは、91年の同大会の模様をTV番組で見てからだ。 第一印象は、「すごいコースだな、景色も良さそうだし、一度は走ってみたい」と、そんな思いでした。 また、タレント間寛平さんのゴールに深く感動し私も同じ感動をあじわいたいと思うようになりました。 そんな思いからスパルタスロンへ行けるかもしれないと、言うニュースが流れてきたのは、93年の「秋 田100kmマラソン」、第5回記念大会で優勝すれば招待してもらえそうだと言う事だった。そんな矢先 7月の終わりに父が亡くなり、8月いっぱいいろいろと忙しくて思うように練習が出来なかった。9月に 入り3週間後に大会だった、約20日間の練習でどれだけ自分が出来るか試そうと思う大会でもあった。レ ースは序盤から走友栃木の渡辺福佳君とのマッチレースだった。今に思えばよく95kmも一緒に走った と思う。途中何度も挫けそうになったが、ユニフォームに縫い付けた父の写真に触れると「天国で応援 しているよ、がんばれ!」と、言う声が聞こえてきました。ゴールはそのまま渡辺君と二人で手をつな ぎ同時ゴール、困った事務局を横目に100kmのベストタイムとやり遂げた、走りきったという喜びで 感無量でした。
翌年94年のスパルタスロンが私のデビューで、それまでは250kmマラソンを完走したことがなかった。 同年4月の「第1回さくら道国際ネイチャーラン」の250kmマラソンに初挑戦したが、145kmの荘川桜 を越えダムの所で途中棄権している。走り方も練習も何も解らずでの参加だった。100kmまではスピー ドで何とか行けたがあとは体がまったく動かず歩くことも出来ずに情けない思いでしたが止めてしまいま した。スパルタスロンでは前半のコリントス運河に着くときにはすでに足が痛くなり始めている所だった。 結局、歩いたり走ったり途中で寝たりして35時間19分台、32位と言う結果に終わった。しかしゴール前の コースで真正面にレオニダス像が見た時には感動しました。通称ヴィクトリーロードと言われるこの道で 応援してくれる地元の方々、約2km一緒に走ってくれる子供たち、ゴールすればみんなが勝者になり、 走りきった事を称えてくれる。これらがこのスパルタスロンを病みつきにさせる原因の一つかなと思いま す。数年前に目で見た感動を、実際に自分が走って見てからの感動とはまた違うものをあじわうことが出 来ました。

 

2020年7月6日 | カテゴリー :

07チェコ・Brno48時間走インドアレース

BRNO 48 HOUR INDOOR

2007.03.16-18

第二位

48時間走 412.909km
(インドア日本記録更新)

・2007年3月16日から18日にかけてチェコ共和国ブルノの行われた48時間走のインドアレースに参加してきました。
今回で2度目の参加なので、どんな走りが出来るか楽しみにしていました。ほんと、すごく調子良かったので記録更新を狙う走り、特に24時間走で250kmを超える走りを最初からしようと思っていました。また、本当は選手として登録した鳥取の黒田さんが、足を痛めていたので急遽サポートをして頂き、本当にありがとうございました。今回の記録は、サポートなしでは出せなかったと思います。助かりました。

・《飛行機》
3/14 成田発11:40 → ウィーン着 16:05 OS52便
3/19 ウィーン発 13:40 → 成田着 09:30 (3/20)OS51便

3月14日(水曜日)朝3:45起床。シャワーを浴び、自宅から20分も歩けば成田空港行きの高速バスの営業所があるので、バスで行くことにしました。5:20発のバスに乗り、立川北口周辺2箇所の停留所に停まり、何人か乗ってきました。やはり休みだから、学生?らしき若者が多かったですね。立川を出たところで寝てしまい、気がついたら千葉県に入っていて、そこから10分位で「まもなく到着する」というアナウンスあり、「早い、2時間経ってない・・・」と。バスを降りたのは、第一ターミナル南ウィング。新しく出来た所で、黒田さんとの待ち合わせは9:30 ヒマだー。荷物をカートに乗せ散策することにしました。日本円からユーロへの両替もしました。参加料をユーロで払う為です。本当は、事前に振り込まなければいけないようなのですが、特別に受付けの時にして頂いてます。ちなみに参加費は、180ユーロでした。9:30予定通り、黒田さんと会う。すぐに旅行会社のカウンターでチケットをもらい、そのあと航空会社のカウンターで荷物を預けました。今回のは、しっかりマイレージが加算されましたよ。やはり以前に比べるとセキュリティーは厳しくなってますね。定刻通り飛行機は出発し、窓側二つのシートで、一人ずつTVモニターが見られる席でした。うれしい。映画も3本見て、ゲームを一通りやりました。食事も中々美味しかったですよ。オーストリア航空は、カップめんも出るので小腹がすいた時に丁度良いですね。チキンラーメンでしたけど。(笑)ウィーン到着、夕方4時チョット前。お迎えは来ているだろうか・・・。変な予感がした。案の定、迎えの方が来てなくてチョット焦りました。50分程待っただろうか、丁度主催者のTomasさんに電話をしようと思ったところに、迎えの方が来ました。名前はチョット忘れましたが・・・。聞けば、駐車場の空きが無くうろうろしていたようです。オーストリア、ウィーンの空港から車で約3時間位、チェコ・ブルノに到着です。前回来た時は、国境の検問でパスポートに検印してもらったのですが、見せただけで終わりでした。残念!その日は、ホテルで持ってきた日本食を早速食べることに事に、なぜならチェコのお金を持っていないので・・・。

・ホテル
MASARYKOVA UNIVERSITY(マサリコヴァ大学)にある、GARNI HOTEL 大学構内にあるゲストハウス?

3月15日(木曜日)朝食は6:30からなので食べに行き、前回の悲惨な朝食のイメージがあったので、そのつもりで行ったらごく普通の朝食で、それどころかスープがとても美味しかったです。9:00過ぎてから買い物と散歩に行くことにしました。ホテルにいてもしょうがないので、レース前は体を動かすようにしています。(疲れない程度に)
ホテルからブルノ駅を目指し、  途中カラフルなトラムが走ってるの目立つ。ワインやビールの醸造所もあり、チェコには70社近くのビールメーカーがあるそうですよ。    駅前から少し歩いたところにブルノの中心、 自由広場があり、その周りにいくつかの教会があるようだ。駅に戻る手前の路地を曲がると、緑の広場(下写真左)で野菜や果物が売っていました。青物市が毎日立っているそうです。その奥の道を上っていくと、聖ペテロ聖パウロ教会(下写真右)があり、とにかく古いのだろうと言うのは、わかるような気がする。チラッとのぞきましたが、天井の高さには驚き、ステンドグラスはとても奇麗でした。

緑の広場の朝市とパルナス(Parnas)の噴水

 聖ペテロ聖パウロ教会

教会を一周してブルノ駅の方へ戻り、駅の裏にあるスーパーマーケット(TESCO)で買い物をしました。そこで買ったガスボンベが、あとから失敗談になるとはその時は気づきませんでした。他には、チョットしたお土産もそこでゲット、この日しか買う時間ないので・・・。買い物の中にライターを探していたのですが、なかなか無く、何の事ないタバコ売り場にしっかりありました。日本で言うところの100円ライターのようだ。それ一つをカードで買ったのには、売り場のおばさん驚いてました。(笑)

さすがにお腹が空いて来たので、ランチをすることに・・・。とりあえずカードが使えそうなレストランに入ろうということで、一軒目、パスタがメニューにあったので入りましたが、なぜか「高そう!」思わず店員に「カード使えますか」と、聞いたら「使えない」との事でしたので、「ラッキー」と思い店を出ました。(笑)やはり両替しなければと言うことになり、ATMでチェコのお金、チェココルナ(Kc)で引き出しました。1チェココルナ(Kc)が約4円のようでした。町ですれ違う若者が、歩きながらピザのようなものを食べていたので、それを食べることに。ソフトドリンクとセットで、60チェココルナだったかな?味は、まあまあいけましたね。

ホテルへ戻り、買い物チェックした時に驚きました。ガスボンベが持って行ったガスバーナーに合わないのです。メーカーも同じだったんで・・・。確かにキャップが付いていて、開けて見れば確認できたのですが、店ではキャップを開けて見なかったのがポイントだったかな?また買って来た店に戻るのも大変だということで、そこまで行く手前にチョット小さ目のスーパーマーケットがあったので、そこへ行くことに・・・。残念ながらそこには売って無く、明日会場で使ってる人に渡そうと言う事になりました。

明日走る会場にも行ったら、早速準備をしていました。計測も巻尺を使いしっかり測ってましたよ。レース前日、しっかり寝る事に・・・。夜9時前には寝たでしょう。

 レース準備Ⅰ

 レース準備Ⅱ

3月16日(金曜日)睡眠はしっかりとれた気がします。早く走りたくて、気持ちが昂ってました。朝食を済ませ、すべての荷物を持ち、8時に玄関前に集合との事だが誰も迎えに来ない。各国の選手も待ちぼうけです。選手同士、車で来た人に便乗して行こうと話が出ました。我々は、ハンガリーの選手の運転する車に乗ることになり、もう一人ドイツの選手のサポートできた人と一緒だった。聞けば、昔は選手として走っていたが、今は足を痛めは走っていないという。確かにランナーには見えない・・・。

AM10:00 第12回ブルノ48時間インドアレース スタート。ちなみにスタートはピストルではなく鐘です。計測はチャンピオンチップ、一周毎にラップタイムと周回数あと、順位が確認することが出来ます。しかし同時にマットに入ると、自分ラップが見れず辛い。250mのコースに51名走っているので、タイミングをうまく取らないと自分が今どれだけ走っているのかを確認できなかったです。特に前半はマークされていたので、ピッタリ後ろについて走る選手が何人かいました。ちなみにスタートして1周目は、1分14秒で通過。最初の1時間で43周、10.75km他の選手に何回も抜かれましたが、1分20秒前後のラップを乱さず走ろうと心に誓ったので、焦らず、淡々と走る事にしました。この時点でトップにたったのは、ウクライナの女性Ninaさんだ、彼女は走る前に話しかけてきて「48時間を楽しみましょう」と、話しかけてきたのを覚えている。そう言えば、走り終わったあとにポストカードを頂いたなぁ。結局、女性の部で2位に入ったのですね、強い。走っているときは1周1周を大切に、しっかり時計を見てラップを取ることに心がけました。7時間走ったところでトップになりました。何気なく自然と前に出てしまいました。その時に、アナウンスがすごかったのを思い出します、やたら「ケンジ ジャパン トウキョウ メトロ」この言葉だけ聞き取れました。48時間の隣のコースでは、10時間リレーだったり、6時間、12時間のソロ。仮装して走る30分間走(Generali Run)があり、会場を盛り上げていました。大会主催者側で用意するテーブルには飲み物、食べ物が各種取り揃えており、口に合わないものもいくつかありましたが、皆さんしっかり食べてましたよ。近くのレストランからか、オードブルも運ばれてきてましたね。肉の塊が見えましたよ。確か黒田さんが食べていました。あっ、それとビールがあったんです。間違って2回口にしましたけど美味しかったですよ。ノンアルコールと言ってましたが、普通に感じましけど・・・。 24時間、最初に言ったように、このラップだけのことを考えて走っていたので、254km以上走れた事は本当にうれしいです。2001年の24時間走世界選手権以来かな!?自己ベストに近い二番目の記録です。やったーぁ、思わずガッツポーズをとってしまいました。アナウンスも盛り上がってました。そこからは、力が一瞬抜け、後から考えると無駄な時間を使ってしまったと後悔しています。シューズを取り替えたり、着替えをしたり、マッサージにも行きました。次回走る機会があったら、後半に200km走れる体を作ろうと思います。とにかくこの48時間走では、24時間はあくまでも途中経過なので、いくらここでいい記録を作っても後半走れず失速したら、いい記録は生まれてはこないと実感しました。37時間を過ぎた頃、おもいっきり寝る事にしました。自分の時計で30分位寝たと思います。起きた時には気分スッキリしてそこから最後まで、眠気は来なかったです。その時です、サポートで頑張ってくれた黒田さんもイスに座り寝ていました。隣のテーブルでサポートしていた人が「シー」と言うジェスチャーで寝かせておけと言うサインのようで、世界中かわらないなと思いました。そこから復活して、9km以上走れるようになったけど、それほど伸びず、その時点で2位になっていました。優勝したTonyさんと、ピッタリ並走する時間が続き、追って、追われてその繰り返し。そうこうしている時に黒田さんも目覚め、ラップを取り始めました。40時間を過ぎた頃です。何時間かインターバルトレーニングが始まりました。抜かれることは無くなったですが、自分が抜くことも無いのでそのまま逃げ切られた感じです。46時間台で400kmを走りきったので、前回よりも走れている。残り1時間30分でどれだけ走れるか、試すことにしました。ここ3時間何も食べていない、と言うか食べれない状態だったので力がでない。何か口に入れると気持ち悪くなってしまうのです。最悪な状態だった。47時間チョットで、自己記録を更新、うれしかった。時間がある限りは走ろう。それから5kmほど走り、48時間終了。近くにいた3位のチェコの選手と一緒にお互いを称えあった。その後優勝した、Tonyさんも自らおめでとうと言ってきたのでうれしかったです。3人で写真を取ることになり、あっと言う間に数人のカメラマンに囲まれてしまいました。優勝者より「あとで一緒にビール飲もう」と言われてしまいました。すごい人だ。

歩いて、自分のエイドに戻り、ノンアルコールビール?で黒田さんと乾杯!お疲れ様でした。

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50km:4時間30分52秒     24時間:254.070km
100km:9時間22分39秒     48時間:412.909km (158.839km)
150km:13時間46分05秒
200km:18時間33分29秒
250km:23時間36分22秒
300km:30時間39分27秒
350km:39時間51分32秒
400km:46時間18分49秒

スタート

前半まだ走れている頃

250m×800周 18時間33分29秒

後半の走り

あと1周

3位の選手と

優勝者と1

優勝者と2

三人でお疲れ様

表彰式

第二位

 

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《練習について》

この48時間走に参加するにあたり、今年1月から練習を始めました。1月を走りこみ、2月走りこみ/体調管理、3月調整に決めました。
・練習した距離
1月  1010km    50km走以上×3回  40km走以上×7回  30km走以上×10回
2月   490km        50km走以上×1回  40km走以上×2回  30km走以上×1回
3月   163km        30km走以上×1回

・体重の変化
1月平均体重 60.4kg  ちなみに、1月1日は61.8kg 一番体重のあった時(1/4)は、62.2kgです。
2月平均体重 58.7kg
3月平均体重 58.8kg

・48時間走の前の大会参加
1/14 宮古島100kmワイドーマラソン  100km 8時間11分23秒 第3位
2/18 東京マラソン 伴走    3時間10分50秒台
2/25 伊豆大島カメリアマラソン 10km 35分31秒 総合4位 年代別1位

1/14の宮古島で100kmマラソンを走り、その結果(内容)があまり良くなかったので、月間1000km以上も走る事になってしまいました。結局それが良かったんですけどね。1/1から走り始め、1/14の100kmマラソンまでに400kmも走ってレースに参加する人はまずいないでしょうし。(笑)変なとこ負けず嫌いなので、前回以上に走らなければと、どこかに考えていたのでしょう。例えば、宮古島で100km7時間台前半で走り優勝していたら、1月の月間走行距離は800km台で満足していたに違いありません。
2月の東京マラソンの伴走の時も体(足)が出来ていたので、余裕がある伴走が出来ましたし、1週間後の10kmレースも前日に大島1周したあとの10kmですから、こんなもんだと自分を褒めてあげました。(こんな時はこっそり、大好きなチーズケーキを一人で食べるようにしてま~す)
1月に1000km、2月に約半分の490kmを走ったのは気持ちの問題が大きいのですが、走りながら疲れをとるようにすることと、数日前までは40kmを走っていたのが、半分の20kmで良いと思うとすごく精神的にも楽になりますよね。体もシャープに、切れも良くなりますよ。そんな感じで2月を終え、3月は調整。ロング走は30km走を1本だけ。後は通勤ランをメインに、疲れないよう心がけ、睡眠もしっかりとりましたね。
体のケアはとても大事なんですよ、自分でもしっかりストレッチするようにしたし、腹筋も忘れずやるようにしました。お金をかけマッサージにも行きましたよ。今出来る事はすべてやった、そんな感じでレースに臨みました。

皆様、ご声援ありがとうございました。

2020年7月4日 | カテゴリー :

05チェコ・Brno48時間走インドアレース

 

チェコ・48時間走インドアレース

大会名:SPORT Life BRNO 48 HOUR INDOOR 2005      CZECH REPUBLIC

開催日:2005.03.18-20     48時間走:18日AM10:00 Start   20日AM10:00 Finish

<特 徴>
・室内250m 4時間毎に走り方を反転する
・チャンピオンチップを利用し、1周すると電光掲示板に即座に周回数、走行距離、順位などが表示される
・エイドには食べ物、飲み物が豊富でバラエティーに富んでいる
・マッサージやドクターがいつでも待機している
・室内のため暖房がきいている、外は寒い
・トイレがきれい、シャワー室もある(落ち着く)
・2レーンあり、インコースに48時間走、アウトコースではサブイベントを行っている。リレー、6時間走・12時間走など。

<完走記>
2005.3.16-22で、ヨーロッパはチェコで行われた48時間走インドアレースに参加してきました。
48時間走は3度目の挑戦で、過去二回は自分の力を発揮出来ず、撃沈されてしまったっと言っても過言ではないでしょう。

今回参加にあたって自分なりに目標を決めました。
1.周りのペースに惑わされず、自分のペースで走る。(5分45秒から6分/km)
2.出来るだけ休まず走れるところまで走る。
3.自己記録更新、317km以上 400km超え

〔目標を達成するために行ったこと(練習)〕
このレースの為に1月1日から練習を開始しました。特に変わった練習をしたつもりはないが、ポイントとしてロング走
50kmを3本入れました。これは青梅マラソンコースを利用し、河辺体育館前から奥多摩駅の先まで行き、折り返してくる コースを走りました。
参考までに、練習日誌:1月・2月・3月
レースまでの3ヶ月、途中仕事で走れない時期もあったり、走り込み時期で滅茶苦茶疲れていたりと、今思えば良い思い出になりますね。
1月に700km台、2月に600kmと走りこんだとは言え、少ない方だと思います。自分の今までの練習量からしても少ない方で、走った時は月間1000kmなんて時もありましたからね。それが疲れも残らず、良い状態でキープ出来たのかも知れませんね。


オフィシャルエイド・チョコが美味しかったかな

2Fから見たエイド、簡易ベットも一人一つあり

〔レース中の食べ物について〕
日本から、用意して持っていったもの。
・ご飯(お湯の中に入れて暖めるもの)×3・カレー×3・乾燥梅干・ガム(眠気対策)・飴・エネルギーゼリーなど
・レース5日前から使用して、レース中は3時間に2カプセルとりました、{サプリメント(OVER drive)}
・2日前から多めにとり、やはり3時間毎に1袋使用の{アミノバイタルPro3600mg}
はじめての試みだったですけど、走っていて全く疲れず、眠くならず、本当に調子良かったです。今までに無い走りが出来ました。

〔シューズについて〕
サッカニー(SAUCONY) Grid Fastwitch Endurance を2足用意して、1足は普段練習でも使用し、また、アテネのパラリンピックにも使用したものを持参、スタートから26時間まで走った。前半の好調な走りを作り出してくれた。取り替えるときに、「お疲れ様、ありがとうとキスをして置いた」。2足目は12kmしか走っていないものを持参。バリバリクッションもきいて、ぶれることなくかかとをしっかりサポートしてくれている。後半のここぞと言う時の走りに貢献してくれた。コースは下がコンクリートで、円形のコース、コーナーがキツイ。足への負担は相当なもので、最後に膝を痛めたときには普段では痛めない箇所だったので驚きました。
シューズの中に入れる中敷き(Super feet:スーパーフィート)も最高の武器になりましたね。フォームが崩れることなく、綺麗な走りが出来たと思います。後半足を痛めバランスが崩れましたが、復活した時はいつものフォームに戻っていました。

〔ウェアについて〕
チームJAPANのTシャツとハーフタイツを使用、夜は長袖とロングタイツを使用しました。(CW-X&アートスポーツ)
インドアで更に暖房が入っているので、走っている分には温かい。人の出入りでドアが開くと、冷たい空気が入ってきて外の寒さを感じることが出来ました。
失敗といえば、ハーフタイツの下にインナーパンツを穿いたのですが、何も塗らずに穿いたので股ずれになり、後半はヒリヒリと痛く、悲惨な思いをしました。

     

鐘によるスタート                 掲示板、周回すると結果がすぐに出る

〔スタート〕
18日朝10:00、レースディレクターのTomas Rusekさんの鐘の音とともにスタートです。いきなりゼッケン1番の人が猛ダッシュ、なぜ?まっ2周もしないうちにペースダウンしたのは、一目見ればわかるかな!?スタート前、妙に体調が良いので、ウォーミングアップして、体操して、早く走りたくてうずうずしていました。こんな気持ちになったのも初めてかな?スタートしてからも自分の決めたペースを守ろうとそれだけに集中して、一周250mの世界に入り込んでしまいました。1kmを6分で走るには、一周250mを1分30秒あれば良いのです。それを1分25秒前後で走り出しているのですが、何人ものランナーが追い抜いていくのです、いつもの私ならそのペースにしっかり付いて、後半疲れてペースダウンって言うのがいつものパターンである。今回は耐えました。付けば付けるのに、「あと何時間あるのだから・・・」と、思うようにして堪えました。最高で1時間に11km丁度、250mを44周走ることが出来ました。それ以上早く走ると、後半走れなくなることは、今までのレースで充分わかっているつもりです。
スタートから16時間まで、1時間で10kmペースをキープ、それでも全く疲れが無く、途中トイレに行ってもすぐコースに復活出来ました。

国別エイド

〔シューズ交換〕
初めてトイレに行った後(大のほう)、続けて個人エイドに立ち寄り、自分のバッグに近づいたのが26時間経ってからだ。ついでにシューズを交換しようと思い、休憩もとることにした。この1時間が4kmだった。やはり新しいシューズは履き心地が違う。すぐに元のペースに戻り、1時間で9kmペースに3時間は走っただろうか?異変が・・・。

〔足が・・・〕
30時間を越えたころ、トイレの帰りに妙に足が重い。筋肉痛、太ももに張りを感じ、すぐにサポートの高田さんにお願いし、体を簡易ベッドの上に仰向けになり、足を振ってもらって復活。気持ちいいー。足は張っているが、まだ睡魔がこない。調子良いのか?その後2時間以上復活して走る事が出来ました。そして、最初の睡魔が・・・。

〔睡魔がいよいよ〕
33時間が経過し、トイレのあと高田さんに「10分間寝かせてください」と、告げて睡眠に付く。簡易ベットに靴を履いたままでの睡眠となる。時間が経ちスッキリした気持ちで走り出した、走れるもんだ。たったの10分だと思うが、気持ちよく目が覚め、体が良く動いたし眠気もとれた。張りのある体が、今度は筋肉痛に、いつもと痛みも違うような気がしてきた。

〔マッサージ〕
大会側のスタッフとしてマッサージがあった、すかさず高田さんに空いているのを見てきてもらい、マッサージに行くことに。36時間経ってからの出来事です。マッサージしてくれるのは女性、見ただけでも逞しいし、パワーもありそうだ。下半身をオイルを塗ってのマッサージ、思っていたより力を出さず、気持ち良いくらいのマッサージである。5分以上してもらっただろうか?すぐに、コースへ戻り走り出した。また1時間程してきつくなり、再度マッサージ室を訪問する羽目になった。足に大分きている。でもあまり眠くは無い。

〔疲れがピークに〕
いよいよ足が危ない、歩き出し、睡魔も襲ってきた。38時間経ってからの出来事。歩いては、エイドに立ち寄り、また歩いては立ち寄り、前に進むしかない。まだ10時間あるのに、「このままだといつもと同じだ」と思い、思い切って痛み止めを飲むことに。すぐに効くはずが無いのはわかっているけど、待てない、もう一つと要求し飲むことに。エイドのイスに座って何度もサポートの高田さんに「辞めようか、どうしようかと問いかけてみた」。自分でも諦め切れない、もしこの状態で高田さんから最後の一言をもらっていたら、辞めていたに違いない。でも日本で応援してくれている人がたくさんいる、最後の力を振り絞り、涙を流しながら、痛い足を引きずりながら走り出した。少しずつだが、走れることを確認、出来る。

〔復活劇〕
39時間目が1時間6.75kmにまで復活して走れる。このまま休まず、残りの時間を走ることにした。40時間台で2位になっている、約10分差で350km走行している。相手はローラースケートを履かせた息子だろう?をサポートに付けこちらの様子を伺い、何か話しているようだ。ペースは8km以上に上がってきている。いける。1位のチェコの人のペースが落ちている。一気に追い抜き、独走状態に。

〔400km突破〕
夢に見た400kmの目標が現実的になってきた。46時間経っての出来事だった。46時間31分22秒、400km突破。会場アナウンスにも力が入っている。その裏返しに、自分の力は、達成感か抜けてきた。そばにいたA.Iさんに、どのくらい走れば良いのかと聞いた、「405kmは超えましょう」との事だった。それは日本人で、フランス在住の有田せいぎさんの持つ、48時間走の記録を更新とのことだ。残りの時間は、気持ちよくパンツやシャツを着替えてリフレッシュした体で走った。残り30分を切った頃だろう、2位・3位のチェコの人2人が一緒に走ろうとの事だ。お互い称えあい、最後の力を振り絞った。そしてどこからか、日の丸の国旗が届けられた。国旗を持ってのビクトリーランだ。気持ち良ーい。

〔フィニッシュ〕
48時間レースの終了、スタート直後は48時間先なんか全く気にしてなかったのに。皮肉なもんで、ゴールしてしまうと途中歩くまで落ち込んだ事さえも忘れてしまいます。でも暫く走らないと思います。あー疲れた。

皆さん、御声援本当にありがとうございました。

 

 

コーナーがキツイ               ゴールは近い、2位・3位の人と

 

地元のTV取材を受けている             終わった直後の表彰式にて

 

2020年7月4日 | カテゴリー :