レース紹介
ウルトラマラソンレース
- 05_オーストラリア・コーラック6日間走
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オーストラリア・コーラック6日間走
20-26 November 2005
2005年11月20日から26日にかけて行われた6日間走に参加してきました。
場所は、オーストラリア・メルボルン(Melbourne)より南西に150km程行った所にあるコーラック(Colac)と言う町です。・メルボルン(Melbourne)~コーラック(Colac)へ
11月18日朝7:30分、私とサポートのA木さんは先に日本から香港経由でオーストラリア・メルボルンに到着しました。今回一緒に走る他のメンバーは日本からの直行便でメルボルンに入り、全員集合して コーラック(Colac)に移動するのですが、バスで空港(Tullamarine Airport)より途中の町ジーロング(Geelong)まで行ける事がわかり、バスに乗ることにしました。そこでチョットしたハプニング。当然バスの到着地点は駅だと勝手に思っていたのですが、駅から15分位離れた場所にバスが停まり、そこから歩いて最寄駅(Geelong)に行きました。メルボルン駅からジーロング駅までは列車が頻繁に走っているようですが、コーラック(Colac)駅に停まる列車は一日に2~3本と本数が少なく、駅構内の売店で朝昼兼用の食事を摂り列車の来るのを待ちました。13:34発→14:43にColac駅に到着。閑静な駅で駅前が思っていたよりも何も無く、そこからホテルへ向かうのですが、標識も地図もない所で人に聞きながらやっとホテルが見つかりチェックインしました。疲れたーぁ、一言。日本とColacとの間の時差は2時間で、Colacの方が早いです。朝は6:30位には明るくなり、夜は9:00過ぎないと暗くならないで、明るい時間がとても長いです。日中は日が差すとすごく暑く、日本で言うと6月くらいの陽気で初夏を思わせるようでした。Colacには湖があり(Colac Lake)、避暑地となっているようで、夏の間にはキャンピングカーで訪れて遊んで帰るのだと思います。湖ではヨットを楽しんでいる人達も見えて、そう言えば一緒に走ったK田さんも何を隠そう元はヨットマンだそうです。レース会場となるメモリアル・スクウェア(Memorial Square)は、ホテルから近くて直線で200m程です。普段は、コーラックの人の憩いの場所で、噴水もあったり、ちょっとしたモニュメントもあります。レース中大型バスで公園横に乗り付け、観光ガイドさん風の方が説明しているのが見えました。中国人の方が多かったです。ここColacに住んでいる日本人は、一人位だと言うことです。アジア系は中国の方が多いようで、レース中も「チャイニーズ、ニイハオ、ニイハオ」と、よく声を掛けられました。
・レース前日
朝ゆっくり目に起床。朝食はホテル前にあり、ガソリンスタンドと併設してコンビニの中にあるサブウェイ(SUBWAY)にしました。朝8:30オープンで、サラダとパンとコーヒーでお腹を満たし、散歩することにしました。湖へ行ったり、レース会場となるメモリアル・スクウェアに行って準備しているところをチェックしてきました。前日からすでにテントに泊まっている人、キャンピングカーで泊まっている人たちは、完璧に準備が出来ていました。我々のテントは大きなのが2つあり、一つでも充分な大きさでした。ここが個人サポート用のエイドステーションで、ここに泊まる事も出来ますが、キャンピングカーも借りました。キャンピングカーの方がゆっくり休めると思ったからです。・なぜ、6日間走を走るの?
この大会のホームページを毎日見ていて、昨年の大会が終わった時に、今年の大会の日程がすぐに決まり、更に20回の記念大会でもあることを知りました。私自身ウルトラマラソンは、100km・24時間走・48時間走と走ってきています。リュックを背負い旅をしながら走るのはあまり得意ではないので、どうせ走るなら少しでも競技性のある方を走りたいと思ったからである。今年の夏にドイツの6日間走を走友フランス在住の有田せいぎさんが走っています。彼からも何度か一緒に走ろうと誘いがありましたが、Colacは外せなかったです。なぜならそれだけ魅力のある大会だからです。6日間走は究極のウルトラレース(時間走)だと私は思います。それにチャレンジ出来る事、走らせてもらえる事は、子供の頃の徒競走で一番遅いクラスで最後を争っていた人間だとは思えない、信じられないことです。「走ってて良かった」と、スタートラインに立った時に思いました。オーストラリア6日間走
05colac6d - 02_ロシア・モスクワ24時間走
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旧ホームページより
2002.05.10-11 ロシア・モスクワ24時間走
stadium”October”,Moscow,Russia 165.837km 総合25位
・「モスクワ24時間走」私にとって非常に忘れられないレースとなりました。
2002年05月08日、東京成田発の直行便でモスクワに着きました。丁度15年前にも来た事のあるこの地を、再び訪れるとは。空港だけは変わってないような気がします、薄くらいのは以前来た時と同じでした。到着ゲートを出ると、今回のレースディレクターの息子さんが迎えに来てくれ、そのまま宿舎へ車で連れて行ってくれました。
失敗1-両替、ガイドブックにも書いてあったのですが無視して日本円しか持って行かず、モスクワの空港の銀行でと思っていましたが、空港では日本円からの両替は出来ず(到着ロビー)、宿舎に着く間に何軒か銀行をあたってもらいましたが、看板には日本円のマークがあるのに今はやってないとか、わからないとか、時間が無いからダメだと断られてしまいました。参った。持っていたVISAカードをATMがあったのでお金を引き出そうと思ったら、これもまたダメで結局一文なし状態でした。
宿舎に荷物を置き、夕食に誘いました。宿舎が郊外にあったものですから、観光しながら中心地に向かい、地下鉄のプーシキンスカヤ駅の出口にある両替所で偶然にも日本円からロシアのお金ルーブルに換えてもらうことが出来ました。ラッキーでした。両替所の人は偽札かどうか、なんども透かして見たりして、なかなか両替してくれなったですね。ロシアのお金も手にして早速レストランに入りました。「ヨールキ・パルーキ」と言うお店に入りました。あとから見たら、ガイドブックにも載っていることがわかり、さすがロシアの中でも有名店なんだなあと関心しました。ボールに肉や野菜、イカ、なんだかわからないものをふんだんに入れ自分で味付けをかけて、鉄板の上で焼いてもらうと言う仕組みだ。自分で好きなだけ食べられるのでこう言うのもありかなと思います。あとは、麺入りスープ、ライス(ピラフ)、パンなどがあり、ビールもハイネケンとロシアのビールが生でありました。値段は10米ドル、1200円位でしょうか。美味しかった。食事を済ませ、観光に行ったのですが、何がなんだかわからず、歩いて疲れたので宿にもどる事にしました。時計を見ると11時、でも10時過ぎまで明るかったです。
宿舎にて、玄関の二つ扉を開けるとすぐ右側にカウンター、そこに機嫌悪そうなおじさんが一人、カギを渡してくれる。この建物内で一つだけだろうと思うTVがロビーに置いてある。デカイ。ドラマ風のものを見ていたらしい。廊下は暗い。もっと電気をつけてくれー、と叫びたくなりそうだった。12号室、ベット二つと、キッチン風の部屋、トイレ・シャワー室、広いが他に何も無い。
困った事1―トイレ、ロシアのトイレは便器の横にゴミ箱が置いてあり、トイレットペーパーを便器に流すのではなくその箱に入れるのである。トイレットペーパーも日本のようにやわらかくなく、硬くこれでは解けにくいだろう。ですから別に分けて捨てるのでしょう。わかるような気がします。トイレットペーパーだけなら良いが、水量、水圧がなく、ものが流れないという現象が起きた。参った。
困った事2-シャワー、泊まった部屋のシャワー、蛇口をひねるとなかなか出てこなくて、出てきたと思うと赤い水でした。しばらく使ってなったのでしょうか、5分位流しておいて、なんとなく普通の色になったので、お湯も出ることだしシャワーを浴びることにしました。口にしてみたら鉄の味がしました。ちょっと不愉快な気分でした。
レース前日の朝、お腹が空いたので宿舎近くのお店に買出しに出かけました。コンビニ風の小さなお店でお腹にたまりそうなものは無く、ウオッカやビールが目に付く、しょうがないので水を3リットル買いました。すぐ横にある大き目なお店は9時過ぎないと開かないらしい。店の前に出店風、八百屋があったのでそこで、青りんごとバナナを買いました。量り売りらしく、人差し指一本たてたら、りんごが6個、バナナは一房くれました。日本円にして300円くらいだったかな。ここで活躍したのが日本から持っていったスーパーの袋、こちらのお店では袋をくれないと言う情報だったので持っていって正解でした。始めて使ったロシア語が「ありがとう」、「スパスィーバ」と言う言葉だった。相手に通じたかどうかわからないが、お店のおばさんがニッコと笑ってうなずいたから、通じているなと思い喜んだ。
24時間走-レース前は日本から持っていった御飯とカップ麺、味噌汁などを口にし、お腹を満たした。宿舎から10分もかからず会場の着くので良かったのですが、トラックのコンディションを見て驚いた。50cm四方のゴムを敷き詰めているだけだった。400mトラックの上を四角いものを置くのですから当然ずれて隙間が出てきます。場所によっては隙間から草が出て花が咲いていたり、角と角がぶつかって山になっていたり、空気が入って盛り上がっていたりさまざまな現象を400mのコース上に描いていましたね。朝10時30分に開会式を始めるということで選手はゼッケン順に並ばされ、一人ずつ紹介されました。男女含めて65名、女子が11名参加している。ロシア全土、35のシティーから参加している。最高齢73歳の方が二人、最年少で20歳の方が一人の参加です。
2002年5月10日、AM11:00ラジオの時報とともにゆっくりスタートした。2周目以降からピッチが上がり、最初の1kmを4分19秒で通過でした。今回のペースをあらかじめ考えておきました。それは2週間前の富士五湖100kmと同じペースで100kmを通過しようと、すなわち、1km4分30秒でおしていこう思っていました。2km手前から私の前に1km4分30秒ペースで走るランナーが現れました。チャンス。彼は24時間走で267km走った記録を持っている選手だと言う。彼についていこう。彼は極端にペースを乱すことなく正確にペースをつかんで走っていました。すごい。結局彼は30km過ぎでペースダウン。ランナーはすり足走法の方が多いのでコースのくぼみに足をとられ転倒したり、突起している部分に足がつまずき転倒したりで、あちこちで転んでる姿が見ることが出来ました。人間玉突き衝突状態をはじめて見ました。一番下になった人は滅茶苦茶痛かったに違いないでしょう。私も24時間の中で一度転び、一回転しました。それほどダメージ無く、すぐ走れたから良かったですが、人によっては頭に包帯を巻きながら走っている人もいました、すごい執念ですよね。レースは一人旅となり40km、50kmを通過しました。50kmを3時間44分台予定通りのぺーすである。でも、走っていて余裕が無いことに気がつきました。このペースで行かなければ・・・。そんな矢先トイレに行きたくなったので、50km過ぎていたのではじめてトイレに行きました。コースから外れ、40m程の所で例のトイレである。簡易トイレではあるが、男性用の便器風と大便用、便器無しの穴が開いているだけ、そしてゴミ箱風のものが一つ。レース後半はトイレが悲惨な状態になっていたことは言うまでのことは無い。約2分の休憩後走りだしました。すぐにギアチェンジをしてトップスピードにのせて走って入る矢先、4時間たったので走る方向を逆にしました。反対の方向を走る時、何か変な感じがあったんですが、突然スピードが出なくなり背中、腰にハリを感じ重たくなってきました。ペースも5分~5分30秒にまで落ち、遂には歩き出すペースになりました。無念。まだ60kmなのに・・・。自分の無力さを痛感しました。走ったり、歩いたりその繰り返しで残り19時間過ごさなければならない。日本で近ければ何も無かったかのようにして帰るのに、ここは外国、トラックにいるのが最低のマナーだろう。レースできない身体に、むち打ってトラックを歩く、ランナーに声をかけられるが、ロシア語で何て言っているのかわからない。きっと「頑張れ」と言っているのだと思うが、わかっているだけに、自分が虚しくなってくる。泣きたい気分だ。ロシアは今の時期、夜10時を過ぎないと暗くならない。明るい時間が長いのも自分が調子悪い時には考えものです、わがままですね。辺りが暗くなると滅茶苦茶寒くなってきた、たまに吹く北風が疲れた身体には本当に応える。辛い。明け方が一番寒かったかな。明るくなったらだんだん温かくなり、一枚ずつ脱いでいきました。でもこんな温度変化の厳しい中でも、ランパン、ランニング姿で走っているランナーがいた事を報告しておきます。彼に「寒くないですか?」と聞いてみたかったですね。23時間50分過ぎ、ラスト10分間だけ走った。今まで走った24時間走の中で最も長かった24時間走でした。
これで私の中の24時間走、今まで走った記録などを自分の中で、リセットしてまた新しい走り方、ゼロからのスタートで再チャレンジしたいと思っています。もちろん記録を狙います。とりあえず、2002年は走りません。来年2003年の秋の復活を目指し、日々努力したいと思います。皆様の応援、これからも宜しくお願い致します。頑張ります。
- 00-01_アメリカ・ウェスタンステーツ100マイル
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WS(ウェスタンスティーツ)100マイルレース
以前、「ランナーズ誌」掲載の原文
「Western States Endurance Run」
今年6月24日~25日にかけてアメリカ・カリフォルニア州で行われた「第27回ウエスタンステーツエンデュランスラン」100マイルのトレイルレースに参加してきました。日本人は私達3名と、ニューヨーク在住の高橋さんの4名を含み385名選手が30時間内に100マイル先のゴールを目指し挑戦しました。
・ウエスタンステーツ(WS)とは?
1950年代後半のTevis Cup Horse Race が元になっている。カリフォルニア州にあるスコーバレー(Squaw Vallay)からシエラネバダ山脈(Sierra Nevada Mountains)を通りアーバン(Auburn)までのコースだった。1974年にGordy Ainsleighが馬のかわりにそのコースを走りその後何人かの選手がトライし1976年には国の認めるオフィシャルな大会になった。スタート地点のスコーバレーは1960年に第8回冬季オリンピックがアメリカで初めて開催された場所としても知られ、オリンピックバレーとも言われている。
・WSの特徴
1.標高の高い所でのアップダウンが多い
2.砂漠地帯、岩場、山道といろいろな地形を走る。
3.温度(スタート地点は10度前後、日中は40度近くまで上がる)
4.中盤にある3つのキャニオン(Canyon)の上りと下り
5.ナイトトレイルランニング
6.川渡り
7.エイドステーションが1区間すごく長い(平均8km前後)
8.ペーサー(Pace Runner)をつけられる
・コース
スコーバレー(Squaw Vallay)~ロビンソンフラット(Robinson Flat) 0~32.2miles
スコーバレー(1,889m)を5時にスタートし、一気に2,652mのEmigrant Pass山頂まで駆け上がる。その後は、アップダウンを何度も繰り返しながらロビンソンフラットを目指す。標高の高いところのアップダウンの繰り返しは身体に大きな負担がかかる、山道は狭く岩がゴロゴロし踏み外すと滑落しそうな場所もある。
ロビンソンフラット(Robinson Flat)~フォレストヒル(Foresthill) 32.2~62miles
ロビンソンフラットを過ぎると今度は砂漠地帯を走る。この頃になると気温は40度近くまで上昇し暑さとの戦いとなる。それに加えDeep Canyon、Deadwood Canyon、El Dorado Creek と、700m近く一気に下りまた500mを一気に登るところが3ヶ所あり更にランナーを苦しめる。
フォレストヒル(Foresthill)~アーバン(Auburn) 62~100.2miles
フォレストヒルまで疲れ切ってボロボロ状態でくると、後半の60kmはとてつもない時間がかかる。ここを過ぎた所からナイトトレイルランニングが始まる為ペイサー(Pace Runner)をつける事が出来る。ペーサーは後ろから走り、コースの誘導等をしてくれる。手持ちのライトだけをたよりに足場の悪いトレイルをどんどん下っていく、下りは楽に見えるが疲労のため着地がしっかりつけず足を捻る事が多い。下りきったあと約100mの川渡り、今年は増水していて胸下位までの深さで歩いて渡る。その後きついアップダウンを繰り返しながらゴールのアーバンを目指す。
・感想
制限時間は30時間だが、24時間以内だと色の違うメダルとバックルをもらえる。24時間以内に走る事が参加ランナーの最大の目標でもある。今回は、65名のランナーが24時間以内ゴールをしました。総じてこのレースはマウンテンランニングであり、私達ロードランナーにとっては柔軟に走る事が難しくかなり悪戦苦闘しました。今後参加される方は、そのへんの所をふまえ練習してからトライして下さい。
・日本人参加者4名の結果
沖山健司 20時間56分02秒 (総合15位)
関家良一 21時間31分35秒 (総合21位)
沖山裕子 23時間54分17秒 (総合64位 、女子の部 9位)
高橋香 29時間03分19秒 (総合167位)
[データ]
*参加者 385名 / 完走者 222名
*エントリー方法-7月頃から10月頃まで受付けて、11月末に抽選があり、外国人枠は10名程度と聞いています。
*会場までの交通手段がないためレンタカーを借りる必要があり、今回はゴール地点にも前日にレンタカーを置いときました。
*参加賞-Tシャツ2枚、ボトル、バッグ(ノースフェース)、スポーツバー、シャンプー、リンス。
*完走賞-バックル、メダル、帽子、長袖Tシャツ。
*レース2日前にトレッキングで最高地点Emigrant Pass へ、山頂でコース説明や歴史の話など。
*レース前日にメディカルチェック、体重・血圧・脈拍を測る。それをリストバンドに書きレースが終わるまで外せない。
*エイドスティーションが24ヶ所あり、9ヶ所で体重測定、10ヶ所Drop Bag を置く事が出来る。
*エイドスティーションの飲み物、食べ物は充実している。氷も用意してあり自分のボトルにも入れてくれる。
*今回の費用-飛行機代、ホテル代、その他で15万円位。
完走するともらえる、バックル - 99_フランス・Eppeville24時間走
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「エペヴィル24時間走」を走る
1999年5月22日から23日にかけて、フランスのパリから北に120キロに位置するエペヴィルという小さな町で開催された『第14回エペヴィル24時間走大会』に参加した。
参加選手は52名、うち日本人は私と在仏日本人の有田せいぎさんの二人でした。そもそも有田さんの紹介でこの大会に参加したのです。どんなウルトラランナーが参加するのか、楽しみのひとつでした。少なくとも日本では『エペヴィル24時間走大会』のことを知っている方は少ないでしょう。
本格的な24時間走(公式公認大会)に参加するのは初めてで、大会の雰囲気に慣れるのにちょっと遅れたような感じがした。
スタートは大会本部の体育館の中。パソコンの画面に20秒前、10秒前と表示されて、午後4時、スターターのピストルでスタート。コースはフランスののどかな田園の中を一周する2.7963キロの周回コース。2キロ過ぎに400メートルの上り坂がある。
スタート直後、二人の選手が飛び出していくのが見えたが、特に追いかけることはせず“マイペースで”と、有田さんとともに走る。一周2.8キロという中途半端な距離なので、ペースを掴むのが難しい。最初の1周が13分29秒。14分台前半のペースを設定していたのだが、スタートからちょっと速いペースだった。そして、このまま13分台前半の速いペースを維持してしまった。これが後半、ペースダウンを招く大きな要因になるとはこの時、知る由もなかった。
大会運営は体育館を中心に、体育館の中を走り抜け、出口にはエイドステーションがある。また1時間ごとの途中経過がスライドで写し出されていて、常に体育館の中を走り抜けるので、写し出された途中経過で、現在何周で順位は何位であるかなど、とてもわかりやすかった。私にとって全てが初めての体験でした。
2時間近く走った頃、トップを走るブラジルのサントス選手に抜かれてしまった。我々もいいペースで走っているが、彼はもっとハイペースで走り、その走り方から見てあまり長続きしないように感じた。しかし、その後9時間、サントスは自分の世界を創っていた。
2周目以降、エイドステーションでこまめに補給する。主にコカ・コーラ、水、炭酸水、オレンジ、レモンなどを口にした。またスペシャルエイドとして、体育館の入口手前に飲み物、若干の食べ物(カップ麺、チョコバー、梅干)を用意した。
真夜中、有田さんの応援に来たパリの在仏北海道人会ポプラ会の小林春二さんから差し入れがあり、食べたおにぎりがとてもおいしかった。
初めてのサポートで参加した渡辺真紀さんの応援もなかなかで、眠そうな顔をして頑張って起きて、応援してくれた。疲れた身体には『ガンバレ』の暖かい声援を掛けられることが何より嬉しく、疲れを癒すことが出来る。
夜も明けて、あたりが明るくなってきた頃、身体も疲れがピークに達した。今年のウルトラレースでの特徴だった160キロ、15時間以降にピークがくることがわかった。すぐに気が付き、休めば早く回復するのにズルズルと引きずり、時間だけ費やしてしまった。
結局2時間、無駄な時間を浪費する。20分仮眠して、すっきり目が覚め、元の身体に近いくらい疲れが取れたような気がした。ゆっくりと走り出して、静かにエンジンがかかるように自然とペースを上げて、2位が確定するまで精神を集中させる。
20時間を過ぎて、残りの時間が気になりだした頃、ラスト二時間は“歩こう”と心に決め、自分の走った道、周回コースをゆっくり歩きながら改めて見ることが出来た。後半の400メートルの上り坂は調子のいい時にはさほど気にならないが、歩いてみるとかなりきつい上り坂であった。
コース上、唯一、少年がエイドをしているところがあったので、挨拶しようとしたのですが、少年はすでにいなかった。ちょっと寂しさが残るが、最後の上り坂。24時間走れたことに感謝し、またいつか必ずエペヴィルを訪れようと心に決めた。
ゴールの体育館前、24時間でちょうど体育館で終わるように、選手がかたまり時間調整をしている。それぞれの健闘を称え合い握手する者、涙ぐむ者、写真を撮る者など、最高の情景というか、ランナーの顔に笑みがこぼれていて、とてもすばらしかった。
私自身、疲れていたが、最後は本当に楽しんで走ったような気がする。24時間走レースの厳しさ、これが本当のレースなんだと、自分なりに感じるものがあった。
24時間走終了の合図。“やったぁー!”とひとりで喜んでしまった。土地柄か、皆、人にやさしく、アットホームな雰囲気、とても走りやすいコース、この上ない持て成し、本当に感無量である。
24時間で83周、232.093キロ。第2位。自分では大変満足している。24時間走で250キロ以上の走りが見えてきたような気がする。また機会をつくり、是非チャレンジしたいと思う。
レース後の表彰式では町中の人々が集まったのではないかと思うほど、人また人の体育館であった。歩くたびに握手を求められたり、サイン攻めである。子どもたちのキラキラ輝くような目に思わず笑みがこぼれてしまった。
1999年第14回エペヴィル24時間走大会。
さすが長年、24時間走大会を開催している伝統がよくわかりました。我々日本人の待遇はよく、特に宿泊費や食事代など、主催者に負担してもらうとは思ってもいませんでした。
日本でも『エペヴィル24時間走大会』のように、いろいろな人、ランナーだけではなく多くの人が参加出来るようなウルトラマラソンのレースの開催を希望したい。今しばらくは本格的な24時間走の大会が開催されることを祈るばかりである。それまでは海外へ遠征して、ひとつでも上を目指して走りたいと思っている。
※1999帰国後の投稿記事より
【写真集】
99_Eppeville24H
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