共走と伴走

※別のホームページにアップしていた記事です。

【杖をロープへ】
私が始めて伴走したのは、1991年の7月21日(日曜日)青梅の本山さんが最初でした。 場所も現在住んでいる東大和市のいつも走っている公園と、なんと言う偶然か。その年のサロマ湖100kmマラソンの帰りに、青梅若草RRCの Tさんに声を掛けられ、同走友会に入ろうと決めた時でもあった。本山さんも若く、いいピッチで走っていた頃だ。「私も同じ青梅若草RRCなんですよ」 なんていう話で盛り上がったのを覚えている。ロープを渡された瞬間、どうやって走ったら良いかまったくわからず、まあ相手のペースに合わせて走 ればいいやと思い走りましたが、それが中々難しく、公園の周回コースのコーナーをいきなり曲がってみたり、危なく車止めにぶつかりそうになるし散 々なガイドでした。しっかり会話をしながら、角を曲がる時は早目に曲がることを教え、障害物があれば事前に何かを伝える。短時間の間に共に走 ることの何かをこの時に教えて頂いた気がする。その後、本山さんとは何度か一緒に走り、マラソン大会へも参加し、ゴールする事が出来ました。

一人で走ってゴールするのも嬉しいですが、伴走して共にゴールし、ビールで乾杯なんてこんな贅沢な楽しみ方がある事を本当に知らなかった。 よく人から「伴走は大変ですね」と言われるが、「走る」と言う同じ共通点、趣味を持つもの同士ですので、決して無理して行っている訳ではない。言い 方が悪いかも知れませんが、自分にとっていちばん簡単なボランティアと言えばわかるだろうか。私が共に走ることで、その人の目になり、分身とな って物を伝える。その人が今まであじわった事がない感動を、一緒にあじわえたら最高ではないだろうかと、思うようになってきた。普段杖をついて歩 いている方が、ロープの輪に身をまかせ何km、何時間と別の世界に踏み込むのですから、お互いの信頼感、安心感が自然と生まれてきます。そし て、走る事の楽しさをも教えてもらいます。

 
小田原大会ゴール手前    


ゴール後、取材カメラに向かって

【立川からパラリンピックへ】
はじめて長野の保科さんとお会いしたのは、1995年3月26日日曜日、「第6回視覚障害者マラソン東京大会」でのこと。 スタート20分前になっても保科さんは現れず、「帰ろうかな」と思っていた矢先、「遅くなりました、長野の保科です」と言って登場。雪の影響で電車が遅 れたそうである。すぐにゼッケンナンバー、436番をもらい、取り付けてスタートラインに並んだ。20kmを1時間18分35秒、保科さんの自己ベスト をだした。よくウォーミングアップなしにいきなり走ってベストタイムを出せるなと、このとき思いました。保科さんとは、この日を機に家族ぐるみのお付き 合いをさせていただいている。毎年夏の走りこみ合宿、これは長野の山を利用した起伏に富んだ難コースで走り概がある。保科さんの奥様が車で サポートしてくれ、その時によって違うが、30kmから70kmも走った時もある。走ったあとは、必ず栄養補給も忘れずに行う。

1995年11月23日「福知山マラソン」この大会は、翌1996年のアトランタパラリンピックの代表選手選考会でもあった。この日保科さんの伴走をし た。スタートから何か保科さんの体の動きが悪い、中盤ペースを取り戻すが、後半ラスト2km手前でペースがぐっと下がった、歩くような状態でゴー ルへと向かった。ゴールタイム、3時間5分39秒。この時から保科さんのサブスリーへ向けてのトレーニングが開始された。

1999年11月23日「福知山マラソン」、翌2000年のシドニーパラリンピックの代表選手選考会。この日は、前半のハーフを私が、後半ハーフを相 模原の関家さんにお願いし二人で伴走した。最初の5kmが19分17秒、すごく調子の良い走りだ。ハーフの距離まで19分20秒前後でペースを作 っている。伴走を終えた私は、4年前の失速した場所、ラスト2km手前へ先に行き保科さんを待つことにした。盲人の部先頭、鳥取のFさんが通過。 200m後方に保科さんの姿が見える。ここで声を掛け、4年前の思い、今まで練習してきたことすべてを残り2kmのこの上り坂の走りぶつけてもらった。

盲人の部、第2位。翌年シドニーパラリンピックのマラソン日本代表選手となった。

 
1999年
福知山マラソンゴール後 

  
2001年
別府大分マラソン参加

【シドニーのゴール】
2000年10月29日シドニーパラリンピック、マラソン当日。スタート2時間前、保科さんと会う。調子良さそうな顔で皆に「頑張ります」と声を掛けた。 コースの数箇所で移動しながら応援、時には歩道を走りながら、ラスト6km位まで声を掛けることが出来た。すぐにゴールの競技場に向かい、私が 着いた時には、ゴールし日の丸を振っていた保科さんを遠くに見ることが出来ました。6位入賞かと思いました。帰りに妙な胸騒ぎがすると保科さん の奥様言っていた。それが2時間後わかることになる。ゴール手前100mで倒れそうになった保科さんを伴走者のKさんが腕をとりゴールに導いた とし、失格となった。何ということだろう、しかし私が伴走していたとしても同じ事をしていたに違いない。思わず涙があふれ出てきた。 終わったあと、新聞記者に言った事がある、「僕のパスポートはアテネの分までとってあります」と。


シドニーパラリンピック
新聞記事

2020年7月4日 | カテゴリー : banso | 投稿者 : Ultrarunner Kenzi