スパルタスロン
~ギリシャ・アテネ~スパルタ 246km~
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アクロポリス・スパルタスロンのスタート地点 |
以前のホームページより
*私達は、スパルタスロンについてまとめました。
蘇ったフィデピデスの伝説
小アジア西岸、地中海沿岸には紀元前11世紀以降、ギリシャ人移民によって、多くの植民地がつくられていて、それらの諸都市は、ギリシャと小アジアを結ぶ貿易によって経済的繁栄を成し遂げていた。 一方東ではペルシャ帝国が強大になり、小アジア西海岸イオニアのギリシャ都市を紀元前550年頃征服する。イオニア人たちは本土に援助を求め、征服されていた諸都市の反乱をアテネが援助したことからペルシャ戦争へと発展していった。 ペルシャ軍は6000の戦艦と10万の兵士を持っていたが、アテナイ軍は将軍ミルティアデスを中心に9000人の兵力しかなかった。
ギリシャの歴史家ヘロドトスによるとアテナイ軍の将軍ミルティアデスは、フィデピデスにスパルタ(古代ギリシャの最強国だった)まで走って行き、応援を求めるように命令したと言う。フィデピデスはスパルタまでの400kmの距離を4日で往復したが徒労に終わる。なぜならばスパルタの王レオニダスは、「5日後の満月の日まで手を貸さない」と、言ってきたのです。 古戦場マラトンは、長さおよそ2km、幅は広いところで1km、狭いところで500mの海岸に面した平原であった。ペルシャ軍を迎え撃つには格好の場所と決めていたアテナイ軍がそこに陣を構えたのは、紀元前490年の9月12日である。プラタイアからの援軍1000人も加わり、長時間の交戦となった。ギリシャ軍は戦列の中央部を薄くし、そこに突入してくるペルシャ軍を両翼から包囲する作戦をもって臨み、ペルシャ軍に壊滅的な打撃を与えて勝利した。この戦いの時に、一兵士がアテネに疾走し、味方の勝利を告げると痛労の余り息絶えたと言うマラソン競技の由来であり、距離にして、22マイル1470ヤード(36,749m)であったと言う。
1982年、伝令フィデピデスの史実を裏付けようとするイギリスのアスリートチームがあった。彼らは一昼夜半でアテネからスパルタまでの246kmを走りきれるかを自分達で確かめたのである。3人のランナーがアテネからスパルタまでの道程を辿った。36時間~39時間で完走を果たし史実を裏付けたのである。
1983年、伝令フィデピデスの勇気と強靭な精神力を讃えるかたちで、第1回ギリシャ・スパルタスロンが開催された。ヒィデピデスが成し遂げた伝令行の意志が長い年月を経て現在に蘇ったのである。
現在のフィデピデス、スパルタスロンランナーの走路
午前6時過ぎ、薄くらい闇の中にスパルタスロンランナー達がアクロポリス下の音楽堂前の道路に集まってきた。2000年大会のスタート地点である。初めの頃はアテネ競技場の前を、その後アクロポリスの入り口前がスタート地点でした。年々参加者が増え、2000年の大会は28ヶ国264人のランナーがゴールのスパルタを目指した。スタートは午前7時。その数分前、スパルタスロンと書かれている横断幕がスタートラインにしかれ、記念撮影をするランナー、抱きあって検討を讃えあうランナー、歌を歌うランナー、スタート地点ではいろいろな様相が見られます。スタート数秒前横断幕が片付けられるといよいよスタート。午前7時、鉄砲の号砲とともにランナーはスパルタを目指し西の方角へと走って行く。
アテネ市街は、金曜日と言うこともあって通勤ラッシュの時間帯で車が多いがこの日はスパルタスロンランナーの為に交差点の至る所に警察官が立っていて車を止めて下さる。いそがしい通勤の時に申し訳ないと思いながらアテネ市街を後にする。
ギリシャの夏は日の出とともに気温が急上昇を始め、スタートして2時間くらいすると炎天下の中に身を放り出すことになる。また、ギリシャの国土の約8割は山地、白っぽい石炭岩質の山肌が樹木に隠されることなく露出して緑が少ない。当然、日陰がほとんどないので、炎天下の中に身をさらし、更に追い討ちをかける様に小刻みなアップダウンを繰り返しながらコリントスに午後4時30分までに着かなければならないのです。今述べた事だけ思い浮かべると厳しさばかりが強調されますが、15kmくらいから左手にサロニキ湾の海を見ながら海岸線を走ります。紺碧の空と群青の海、自然の恵みにいつしか辛さを忘れ、そしてこの群青の海は気分を癒してくれます。又、この海岸線には石油コンビナートが幾つか並ぶエレフシーナ、オリーヴの林の続くメガラの町が位置し、ランナーはコリントスに向け通過して行きます。
78.5kmのエイドステーションを過ぎ、コリントス運河をランナーは渡ります。運河を横切る橋は、23mばかりでコリントス湾とサロニキ湾を結ぶ。言い換えれば、ギリシャ本土とペロポネス半島とを結ぶ橋である。橋の中央から望むと、水面から8mも垂直にそそり立った石炭岩断層の両岸が迫っている。運河は6kmほどで、フランスの会社による11年がかりの工事で、1893年に現在の運河が完成し、その後ギリシャの経済の発展に大きく影響したのである。コリントス運河を渡り2.5kmほど走ったところにあるコリントス第1チェックポイントに到着する。ここで初めてサポートクルーと接触することが出来、81kmを9時間30分(午後4時30分)以内で通過しなければならないので、時間内にたどり着けないランナーも多い。
コリントスを後にランナーは、主要道路を離れ、ブドウ畑の間を縫うように続く道を走って行きます。しばらくすると旧コリントス遺跡が目の前に見ることが出来ます。(93km付近)この旧コリントス遺跡にはアポロンの神殿跡があり、岩肌の露出したアクロコリントス山を背景に立っている7本の柱が風景として圧巻です。
ランナーは旧コリントス遺跡を後に、ブドウ畑のあいまを走り続けながら、124kmのネメア第2チェックポイントに向かいます。ネメアの手前の村、ヘラクリオンに古代ネメアの遺跡があります。ネメアは、海抜700mのトリカラノンの南端にあって幅1km、長さ4kmにわたり、高台に位置している。赤ワインで有名な地帯だけに緑の葉とたわわに実ったブドウ畑が続いている。また、古代においても聖地ネメアで、2年ごとに競技大祭が開かれていました。(ギリシャ四大競技大祭のひとつ)伝令フィデピデスもオリンピック選手であったと言われています。ほとんどのランナーは日が落ちた頃ネメアに到着します。124kの行程を15時間30分以内(午後11時)までに通過しなければなりません。ここからは闇の走行となる為ランナーは懐中電灯が絶対必要となります。当然街灯はないので足元は持っている懐中電灯で照らすしかなく足場に気をつけ、道も間違えずに行かなければなりません。この頃になるとランナーは集団よりはむしろ1人で走ることのほうが多いです。ネメアを過ぎる頃から徐々に勾配もきつくなり、サンガス山が近いことを感じさせてくれます。途中足場の悪い不整地を数十km走る行程があって疲れている身体に追い討ちかけるようにランナーを痛めつけます。この闇の世界でも、天気の良い時は満天の星とこうこうと光る月が宝石のように輝き夜空の天体ショーを我々に見せてくれます。私は流れ星に願いを込めます「完走したい」と。海と同様にこのギリシャでは自然の恩恵に幾度となく心を奪われることが多いです。
サンガスのふもとの町、リルケア第3チェックポイント(148km)に深夜3時までにランナーは着かなければなりません。ここのポイントでは深夜だと言うのに村の人たちが暖かく選手を迎えてくれます。一杯飲みながらでしょうか皆さん陽気に話し掛けて来ます。「どこからきたんだ?」「何か飲むか?」「ビール?ワイン?ウイスキー?」などなど。
走っていて楽しい時でもある。教会の鐘の音もここで聞いた気がします。
リルケアを後にしたランナーはピンカーブ勾配のきつい舗装道路を上り、サンガスのトップヒルの1つ手前、登り口のエイド(160km)を目指します。この地点ですでにスタートから700mほど登ってきているのです。これから1,100mのサンガス山越えが始まります。
緑の発光灯をたよりに、ガレ場をよじ登るような感じで登って行きます。高い木が無いので風が吹くと夜の冷え込みと重なって一層過酷なものにサンガス山は演出してくれ、山頂までの2.3kmがとてつもなく長く遠くに感じます。登りきった後は急な砂利道の下り坂が続き富士山の山頂から帰るコースをイメージして頂ければわかると思います。
下りきるとそこは、172km地点ネスタニ第4チェックポイント、ここまで午前7時に到着しなければなりません。ネスタニから次のテゲアまでは平坦な路面がずっと続き、ちょうど睡魔が襲ってくるのもこの頃だと思います。また、ギリシャは羊飼い(放牧)の国であり、それを思わせるかのように走っていると前から羊の群れに合うことがあります。実にのどかな光景で走っていることを一瞬忘れ見入ってしまうことさえあります。
195km地点、テゲア第5チェックポイントがあり、ここまでは午前11までに通過しなければなりません。テゲアはアルカディア地方における最も古い都市の1つである。テゲアから50km、山また山を這うように南下するとスパルタの町に着きます。この50kmがランナーにとって最後の舞台、精神面での勝負である。テゲアを過ぎてすぐ延々と30km近い上り坂が続き、周囲を遮るものは一切無く、2度目の炎天下に心身をさらした状態で走り続けなければならないのだ。暑さに耐えながら30km近く走り上りきり、222.5km地点、第6チェックポイントに到着、ここを午後3時30分までには通過しなければならない。まだ上りが見えるので早めにエイドをあとにする。NO.70のエイドを過ぎれば、今度は下り、顔を少し左方向へ動かすと、眼下に遠くスパルタの町が見えてくる。「とうとう着たな」と、思わせるがまだ15km近くある。スパルタは東西2kmくらいの小さな町です。周辺はオリーヴやオレンジの畑で町自体も標高200mのところにあって海からも遠い。スパルタまでの長い下り坂を下り、いよいよスパルタの町へ入ってきた。スパルタ橋を渡るとゴールは近い。最終エイドステーションNO.74でギリシャ人の若い女の子達が待機していて選手に2~3人ついてゴールのレオニダス像まで一緒に走ってくれる。聞くとほとんどが町の中学生だそうです。約2km刻一刻と英雄になる瞬間がやってくるのです。ゴール手前のコースに入ってくるとどこからともなく、「ブラボー、ブラボー」と、言って応援してくれます。思わず涙がこみあげてきます。スパルタの人たち、仲間に迎えられ246kmのゴール、レオニダス像にタッチします。走っていて辛かったこと、大変だったことなどすべてが喜びに変わります。そして勝者の証としてオリーヴの冠を頭にかけてもらえる。オリーヴの枝で作った冠は、古代オリンピック競技大祭で優勝者に与えた冠なのである。スパルタスロンを完走してオリーヴの冠を頭にかけてもらったランナー皆が勝利者であり英雄で、その英雄たちを一目見ようと遠い町から見にくると言う。多くの方々に祝福され本当に光栄です。
オリーヴの冠
マラトンで撃退されたペルシャ軍は、前回に上回る艦船と10万を越える陸兵を持って再びギリシャを攻めてきた。そして、テルモピュライでギリシャ軍と陸戦となった。ギリシャ軍守備隊の兵力は、スパルタ王レオニダスが率いる300名など合計6000名だった。テルモピュライで孤軍奮闘しているレオニダスの部隊にスパルタをはじめ援軍が送れなかったのは、スパルタにおいてカルネイアの祭礼がありその期間の出征が禁止されていたからである。カルネイアの祭礼に続いてオリンピック競技大祭が実施されギリシャの諸都市も大部隊を送ることが出来ず、ペルシャの大軍の前にギリシャ軍守備隊は全滅し、レオニダスは戦死した。(そのあとギリシャ軍は”サラミスの海戦”ペラタイアイの平原で行われた陸戦でペルシャ軍に勝利した。)
レオニダスがペルシャ軍と戦っていた時も残ったギリシャ人たちはオリンピュアに集まって競技したと言われている。古代競技大祭はギリシャ人の信仰を神々に捧げる祭典で英雄の死を悼んだり、神々の事業を偲んだりすることに祭典は始まった。競技大祭の前後の一定期間中は、「オリンピックの平和」すなわち「聖なる休戦」が実施され、一般人が安心して競技大祭に出かけられるように、敵対行為のみならず、処刑も禁止され、オリンピュア聖域はもちろん、大祭を管轄するエリスに武装した人が入ることを禁止したがペルシャなどの外敵には通用しなかった。そして、この休戦はレオニダスにとって悲劇的な結果となってしまった。
オリンピック競技大祭で、優勝者には金品ではなくオリーヴの枝で作った冠だけが与えられたのである。オリーヴの冠は優勝者にとって精神的栄冠なのである。何故優勝への道をかけのぼるろうとするのか、それは栄誉とともに安らぎが持たされるからである。まさにそれは人間の内面から自然に湧きあがってくるものと言われている。スパルタスロンであのレオニダス王が見えてからのコースで地元の方からの祝福、スパルタの表彰式でのスパルタ市民全員から拍手喝采は名誉なことであり、オリーヴの冠をかけてもらった瞬間から大きな安らぎがあたえられ、まさに古代オリンピック優勝者のもつ感情と同じではないだろうか。
そして又、スパルタスロンは人間にとって大切なものを教えてくれます。感謝の気持ち、感動、喜び、人をいたわる心などを内面から呼び起こし、純粋な気持ちにさせ、人に優しく慣れるのです。そして、国境越えた人間同士の友情もめばえ、大会を通して同胞の意識を持つ事をも出来るのです。「鍛えられた肉体が純粋に求めて競う」古代オリンピックの精神がスパルタスロンに大きく繁栄しているように思います。フィデピデスは4日間でアテネからスパルタ間を往復したと言われている。近い将来、アテネからスパルタ間を往復するランナーが現れるのであろうか。私達は是非挑戦したいと思います。
スパルタスロンの記録について
参加者が年々増加してきた今日、情報化社会の影響もあり誰もが簡単に参加できるようになってきた。参加資格の中に「100km以上の距離を走ったことのある者」とある、日本でも幾つかの100kmマラソンが開催されているのでその大会に参加したことを書いて提出すれば参加出来る。
記録の事を言えば、イヤニス・クーロス氏のことを言わなければ始まらない。彼はギリシャ人で現在はオーストラリアに在住しているそうです。第一回のスパルタスロンで21時間53分の記録で優勝して以来、コースレコードとなる翌二回大会の20時間25分を出し、トータル四回優勝している。彼はスパルタスロンだけではなく24時間走、48時間走、それ以上の距離にも圧倒的強さを発揮して記録を持っている。ウルトラランナーの代名詞とも言われ、ミスターウルトラとも呼ばれているそうです。
日本人参加者の記録を見ると、初参加が1986年の西村さん、上位入賞者が1989年の森川さん、26時間08分で3位に入賞している。そのあとの日本人入賞者は1996年の古家後さん、27時間41分で第二位、1997年25時間55分、1998年26時間13分、沖山の二年連続第二位に入賞している。1999年、小野木さんが27時間16分台で第三位に入賞し、そして2000年24時間01分10秒で大滝さんが日本人初優勝を成し遂げた。女子についてもここ4年位前から表彰がはじまり記録としては1998年のスウェーデンのメリー・ラーソンさんが28時間46分でコースレコードを持っている。日本人では北海道の船田さんが1998年に29時間32分台を持っていたが、2000年、沖山裕子が29時間16分37秒で見事優勝した。2000年男女の優勝者が日本人から出た事は快挙であり、スパルタスロン史上に残る最高のパフォーマンスではなかったかなと思います。
これからますます日本人参加者が増えると思いますが、皆さんが無事楽しくゴールのスパルタまで走り、レオニダス像にタッチ出来ることを心よりお祈りいたします。
スパルタスロンへの参加
私がそもそもスパルタスロンに参加しようと思ったのは、91年の同大会の模様をTV番組で見てからだ。 第一印象は、「すごいコースだな、景色も良さそうだし、一度は走ってみたい」と、そんな思いでした。 また、タレント間寛平さんのゴールに深く感動し私も同じ感動をあじわいたいと思うようになりました。 そんな思いからスパルタスロンへ行けるかもしれないと、言うニュースが流れてきたのは、93年の「秋 田100kmマラソン」、第5回記念大会で優勝すれば招待してもらえそうだと言う事だった。そんな矢先 7月の終わりに父が亡くなり、8月いっぱいいろいろと忙しくて思うように練習が出来なかった。9月に 入り3週間後に大会だった、約20日間の練習でどれだけ自分が出来るか試そうと思う大会でもあった。レ ースは序盤から走友栃木の渡辺福佳君とのマッチレースだった。今に思えばよく95kmも一緒に走った と思う。途中何度も挫けそうになったが、ユニフォームに縫い付けた父の写真に触れると「天国で応援 しているよ、がんばれ!」と、言う声が聞こえてきました。ゴールはそのまま渡辺君と二人で手をつな ぎ同時ゴール、困った事務局を横目に100kmのベストタイムとやり遂げた、走りきったという喜びで 感無量でした。
翌年94年のスパルタスロンが私のデビューで、それまでは250kmマラソンを完走したことがなかった。 同年4月の「第1回さくら道国際ネイチャーラン」の250kmマラソンに初挑戦したが、145kmの荘川桜 を越えダムの所で途中棄権している。走り方も練習も何も解らずでの参加だった。100kmまではスピー ドで何とか行けたがあとは体がまったく動かず歩くことも出来ずに情けない思いでしたが止めてしまいま した。スパルタスロンでは前半のコリントス運河に着くときにはすでに足が痛くなり始めている所だった。 結局、歩いたり走ったり途中で寝たりして35時間19分台、32位と言う結果に終わった。しかしゴール前の コースで真正面にレオニダス像が見た時には感動しました。通称ヴィクトリーロードと言われるこの道で 応援してくれる地元の方々、約2km一緒に走ってくれる子供たち、ゴールすればみんなが勝者になり、 走りきった事を称えてくれる。これらがこのスパルタスロンを病みつきにさせる原因の一つかなと思いま す。数年前に目で見た感動を、実際に自分が走って見てからの感動とはまた違うものをあじわうことが出 来ました。