旧ホームページより
2002.05.10-11 ロシア・モスクワ24時間走
stadium”October”,Moscow,Russia 165.837km 総合25位
・「モスクワ24時間走」私にとって非常に忘れられないレースとなりました。
2002年05月08日、東京成田発の直行便でモスクワに着きました。丁度15年前にも来た事のあるこの地を、再び訪れるとは。空港だけは変わってないような気がします、薄くらいのは以前来た時と同じでした。到着ゲートを出ると、今回のレースディレクターの息子さんが迎えに来てくれ、そのまま宿舎へ車で連れて行ってくれました。
失敗1-両替、ガイドブックにも書いてあったのですが無視して日本円しか持って行かず、モスクワの空港の銀行でと思っていましたが、空港では日本円からの両替は出来ず(到着ロビー)、宿舎に着く間に何軒か銀行をあたってもらいましたが、看板には日本円のマークがあるのに今はやってないとか、わからないとか、時間が無いからダメだと断られてしまいました。参った。持っていたVISAカードをATMがあったのでお金を引き出そうと思ったら、これもまたダメで結局一文なし状態でした。
宿舎に荷物を置き、夕食に誘いました。宿舎が郊外にあったものですから、観光しながら中心地に向かい、地下鉄のプーシキンスカヤ駅の出口にある両替所で偶然にも日本円からロシアのお金ルーブルに換えてもらうことが出来ました。ラッキーでした。両替所の人は偽札かどうか、なんども透かして見たりして、なかなか両替してくれなったですね。ロシアのお金も手にして早速レストランに入りました。「ヨールキ・パルーキ」と言うお店に入りました。あとから見たら、ガイドブックにも載っていることがわかり、さすがロシアの中でも有名店なんだなあと関心しました。ボールに肉や野菜、イカ、なんだかわからないものをふんだんに入れ自分で味付けをかけて、鉄板の上で焼いてもらうと言う仕組みだ。自分で好きなだけ食べられるのでこう言うのもありかなと思います。あとは、麺入りスープ、ライス(ピラフ)、パンなどがあり、ビールもハイネケンとロシアのビールが生でありました。値段は10米ドル、1200円位でしょうか。美味しかった。食事を済ませ、観光に行ったのですが、何がなんだかわからず、歩いて疲れたので宿にもどる事にしました。時計を見ると11時、でも10時過ぎまで明るかったです。
宿舎にて、玄関の二つ扉を開けるとすぐ右側にカウンター、そこに機嫌悪そうなおじさんが一人、カギを渡してくれる。この建物内で一つだけだろうと思うTVがロビーに置いてある。デカイ。ドラマ風のものを見ていたらしい。廊下は暗い。もっと電気をつけてくれー、と叫びたくなりそうだった。12号室、ベット二つと、キッチン風の部屋、トイレ・シャワー室、広いが他に何も無い。
困った事1―トイレ、ロシアのトイレは便器の横にゴミ箱が置いてあり、トイレットペーパーを便器に流すのではなくその箱に入れるのである。トイレットペーパーも日本のようにやわらかくなく、硬くこれでは解けにくいだろう。ですから別に分けて捨てるのでしょう。わかるような気がします。トイレットペーパーだけなら良いが、水量、水圧がなく、ものが流れないという現象が起きた。参った。
困った事2-シャワー、泊まった部屋のシャワー、蛇口をひねるとなかなか出てこなくて、出てきたと思うと赤い水でした。しばらく使ってなったのでしょうか、5分位流しておいて、なんとなく普通の色になったので、お湯も出ることだしシャワーを浴びることにしました。口にしてみたら鉄の味がしました。ちょっと不愉快な気分でした。
レース前日の朝、お腹が空いたので宿舎近くのお店に買出しに出かけました。コンビニ風の小さなお店でお腹にたまりそうなものは無く、ウオッカやビールが目に付く、しょうがないので水を3リットル買いました。すぐ横にある大き目なお店は9時過ぎないと開かないらしい。店の前に出店風、八百屋があったのでそこで、青りんごとバナナを買いました。量り売りらしく、人差し指一本たてたら、りんごが6個、バナナは一房くれました。日本円にして300円くらいだったかな。ここで活躍したのが日本から持っていったスーパーの袋、こちらのお店では袋をくれないと言う情報だったので持っていって正解でした。始めて使ったロシア語が「ありがとう」、「スパスィーバ」と言う言葉だった。相手に通じたかどうかわからないが、お店のおばさんがニッコと笑ってうなずいたから、通じているなと思い喜んだ。
24時間走-レース前は日本から持っていった御飯とカップ麺、味噌汁などを口にし、お腹を満たした。宿舎から10分もかからず会場の着くので良かったのですが、トラックのコンディションを見て驚いた。50cm四方のゴムを敷き詰めているだけだった。400mトラックの上を四角いものを置くのですから当然ずれて隙間が出てきます。場所によっては隙間から草が出て花が咲いていたり、角と角がぶつかって山になっていたり、空気が入って盛り上がっていたりさまざまな現象を400mのコース上に描いていましたね。朝10時30分に開会式を始めるということで選手はゼッケン順に並ばされ、一人ずつ紹介されました。男女含めて65名、女子が11名参加している。ロシア全土、35のシティーから参加している。最高齢73歳の方が二人、最年少で20歳の方が一人の参加です。
2002年5月10日、AM11:00ラジオの時報とともにゆっくりスタートした。2周目以降からピッチが上がり、最初の1kmを4分19秒で通過でした。今回のペースをあらかじめ考えておきました。それは2週間前の富士五湖100kmと同じペースで100kmを通過しようと、すなわち、1km4分30秒でおしていこう思っていました。2km手前から私の前に1km4分30秒ペースで走るランナーが現れました。チャンス。彼は24時間走で267km走った記録を持っている選手だと言う。彼についていこう。彼は極端にペースを乱すことなく正確にペースをつかんで走っていました。すごい。結局彼は30km過ぎでペースダウン。ランナーはすり足走法の方が多いのでコースのくぼみに足をとられ転倒したり、突起している部分に足がつまずき転倒したりで、あちこちで転んでる姿が見ることが出来ました。人間玉突き衝突状態をはじめて見ました。一番下になった人は滅茶苦茶痛かったに違いないでしょう。私も24時間の中で一度転び、一回転しました。それほどダメージ無く、すぐ走れたから良かったですが、人によっては頭に包帯を巻きながら走っている人もいました、すごい執念ですよね。レースは一人旅となり40km、50kmを通過しました。50kmを3時間44分台予定通りのぺーすである。でも、走っていて余裕が無いことに気がつきました。このペースで行かなければ・・・。そんな矢先トイレに行きたくなったので、50km過ぎていたのではじめてトイレに行きました。コースから外れ、40m程の所で例のトイレである。簡易トイレではあるが、男性用の便器風と大便用、便器無しの穴が開いているだけ、そしてゴミ箱風のものが一つ。レース後半はトイレが悲惨な状態になっていたことは言うまでのことは無い。約2分の休憩後走りだしました。すぐにギアチェンジをしてトップスピードにのせて走って入る矢先、4時間たったので走る方向を逆にしました。反対の方向を走る時、何か変な感じがあったんですが、突然スピードが出なくなり背中、腰にハリを感じ重たくなってきました。ペースも5分~5分30秒にまで落ち、遂には歩き出すペースになりました。無念。まだ60kmなのに・・・。自分の無力さを痛感しました。走ったり、歩いたりその繰り返しで残り19時間過ごさなければならない。日本で近ければ何も無かったかのようにして帰るのに、ここは外国、トラックにいるのが最低のマナーだろう。レースできない身体に、むち打ってトラックを歩く、ランナーに声をかけられるが、ロシア語で何て言っているのかわからない。きっと「頑張れ」と言っているのだと思うが、わかっているだけに、自分が虚しくなってくる。泣きたい気分だ。ロシアは今の時期、夜10時を過ぎないと暗くならない。明るい時間が長いのも自分が調子悪い時には考えものです、わがままですね。辺りが暗くなると滅茶苦茶寒くなってきた、たまに吹く北風が疲れた身体には本当に応える。辛い。明け方が一番寒かったかな。明るくなったらだんだん温かくなり、一枚ずつ脱いでいきました。でもこんな温度変化の厳しい中でも、ランパン、ランニング姿で走っているランナーがいた事を報告しておきます。彼に「寒くないですか?」と聞いてみたかったですね。23時間50分過ぎ、ラスト10分間だけ走った。今まで走った24時間走の中で最も長かった24時間走でした。
これで私の中の24時間走、今まで走った記録などを自分の中で、リセットしてまた新しい走り方、ゼロからのスタートで再チャレンジしたいと思っています。もちろん記録を狙います。とりあえず、2002年は走りません。来年2003年の秋の復活を目指し、日々努力したいと思います。皆様の応援、これからも宜しくお願い致します。頑張ります。